2010年12月31日金曜日

年賀状対応ブログ記事


年賀状に書いた「本当か?ウソか?」という問いかけに対する自分なりの回答を書きました。後述の見出しに書いた「俗説」は本当なのでしょうか、考えてみました。

①デフレは消費欲の無い人が増えたために生じている

消費しない若者が増えているという記事があちこちに見られるようになってきました。車を買わない、家も買わない、酒もタバコもやらずに貯蓄する。そしてそのような消費欲がない世代の人々が増えてきたのでモノが売れなくなり、景気が回復しないという。つまり、政府や日銀の政策が悪いのではなくて人々の性質が変わったことが不況の原因であり、モノの時代から心の時代に変化した自然の成り行きであるという。だから減税や給付金でおカネを人々に供給しても貯蓄が増えるだけで消費は増えないし、政府や日銀がどうにかできる問題ではないというわけです。もっともらしく聞こえますが、本当にそうなのでしょうか。

確かに現象として「消費欲が落ちた」のは事実かもしれません。しかしそれが人間としての本質的な消費欲の減退なのか、それともおカネを使わないこと(=禁欲)の馴れからくる消費欲の減退なのか、十分に分析されているとは思えないのです。私ははるか昔から貯蓄指向が強く、無駄なモノを買わず、それこそバブルの時代から贅沢とは程遠い生活をしてきました。つまりモノを買わない世代と同じであったわけです。しかし欲が無いわけではなく、禁欲であることへの馴れが節約や貯蓄という行動をとらせていました。そのような自らの経験から言って、人々の性質が変化したことは本質ではないと考えています。政府や日銀がデフレ不況を長期的に放置した結果、おカネがない状態が極めて長期に、世代の志向性を決定付けるほどに長期間にわたって続いたためにおカネを使わない世代が生まれたと考えています。社会が長期間デフレ不況であり、就職氷河期が続いているなかで、人々は消費しないことに馴れてしまった。そこに本当の原因があると思うのです。しかしこれは一種の「流行」です。社会全体におカネが長期間にわたって潤沢に供給されつづけるなら、多くの人々は、私のような一部の人を除いて必ず消費するようになるはずです。その意味において政府や日銀の責任逃れの口実として流されている「デフレは消費欲の無い人が増えたために生じている、だから政府や日銀に責任は無いし、対策も難しい。」は、私にはとても信じられるものではありません。

②おカネを刷るとおカネの価値が下がってインフレになる

おカネを刷るとおカネの価値が下がるのでしょうか?単純に考えれば世の中のおカネの量が二倍になったら、価値が半分になるような気がします。だからインフレになると思ってしまう人が多いようですが、はたしてそうなのでしょうか?確かに算術の上ではそうですが、実際にはおカネの価値は市場での売買を通じて決まります。はじめにおカネを二倍に増刷した段階ではおカネの価値は変わりません。そのおカネが世の中に出回って、人々の手に渡り、市場において人々が買い求める商品の量が二倍になると、商品の値段が二倍に跳ね上がります。つまり物価上昇(インフレ)となります。そこで初めておカネの価値が半分に下がるわけです。ところがもし人々の貯蓄意欲が高いために増刷したおカネを使わずに、増えた全額を貯め込んでしまったら、市場で人々が買い求める商品はぜんぜん増えません。すると商品の値段は上がりませんので、インフレは発生せず、おカネの価値はそのままなのです。さらに、もしおカネが二倍になって人々が買い求める商品の量が二倍になったとしても、二倍の量の商品が供給されるならば商品の不足が起こらないため値段もあがりませんから、インフレにもならず、おカネの価値も下がりません。

つまり、おカネの価値はおカネを刷るかどうかで直接決まるのではなく、おカネの増刷によって発生する需要の増加と商品の供給量のバランスの問題なのです。そして、もしインフレにならない程度のおカネが増刷され、それが人々に給付されるのなら、貧困が減り、人々の生活は豊かになるのです。「おカネを刷るとおカネの価値が下がってインフレになる」という情報は、紙幣の発行に消極的な日銀の責任を薄める効果はありますが、日本の経済に何らプラスの影響を与えるものではないと思うのです。

③失業が多いのは人々が仕事を選り好みするからだ

失業が多いのは失業者が仕事を選んでいるからで、仕事はいくらでもある。だから失業者に手当てを出したり、生活保護におカネを回す必要は無い。という話を聞きます。本当でしょうか。そもそも不景気で失業が増えるのはなぜでしょう。不景気になるということは、商品が売れなくなることですから、生み出される商品やサービスの量も減少します。生み出される商品やサービスの量は投入される労働時間に比例しますから、商品やサービスの量が減ることは、世の中の総労働時間が減ることを意味します。通常一人当たりの労働時間は大きく変化しません(不況になったからと言って8時間労働が5時間労働にならない)ので、世の中の総労働時間を一人当たりの労働時間で割った値、つまり必要とされる労働者数は減少します。これが失業率の増加する原因です。ですから、不況になれば確実に仕事はなくなるわけで、失業者が仕事を選り好みするから失業率が高くなるわけではありません。そもそもこれは「イス取りゲーム」なのです。イスを求人、イスに座れなかった人を失業者だとするなら、不況で求人が減少し続ける以上、イスに座れない人は確実に増え続けます。自分の努力で資格を取ったりスキルをアップすることでその人はイスに座ることができたとしても、その結果、別の誰かがイスを失うだけなのです。

確かに仕事を選り好みすればなかなか仕事に就けないし、資格をとるように勉強すれば就職に有利になることは間違いありません。しかしそのようなミクロ的に正しいことがマクロ的に正しいとは限らないのです。多くの場合、そこに本質的な問題解決を阻む「落とし穴」が潜んでいるような気がします。

④高齢化や人口減少で景気が悪くなるのは当然だ

高齢化や人口減少で景気が悪くなる。確かに高齢者になれば働き盛りの子育て世代に比べて消費は減りますし、人口が減少すれば売れるモノの量が減ります。これが景気低迷の現況のように聞こえてしまいますが、本当にそうなのでしょうか。これは景気を「量」としか捕らえていないために生じている誤解だと思います。確かに人口が減少したり高齢化すれば必要とされる商品やサービスの総量も減少します。日本のGDPは確実に減少することになるでしょう。しかし、それは「総量」なのです。むしろ重要なのは「一人当たりのGDP」です。高齢化でも人口減少でも一人当たりのGDPが高い水準にあるということは、一人当たりが生産し、一人当たりに分配される商品やサービスが十分に確保されていることを意味します。高齢化や少子化によるGDPの減少は、本来、人口の減少に比例して経済規模が縮小することにより生じる総量の減少であり、経済の質が低下するために生じるわけではないのです。一人当たりのGDPが高い水準にあれば、一人一人が必要とする商品やサービスが人々に行き渡り、貧困や格差が極めて少ない状態が実現します。これなら、たとえ総額のGDPが減少したとしてもそれを不況とは言わないでしょう。

人口が減少しても一人当たりの必要とする商品やサービスの量は減りません。ですから一人当たりの売上高は減少せず、景気の質を悪化させるものではないのです。裏を返せば一人が生み出さねばならない商品やサービスの量も減りません。ですから、一人当たりに要求される仕事の量が減るわけではなく、失業率を増加させる原因とはなりません。経済の総額が減少しても、一人あたりが必要とする商品やサービスを生産し、分配するという質的なレベルでは、まったく減少しないのです。さらに、ここで高齢化が進んで一人当たりの必要とする商品やサービスの量が減ったとしても、高齢者はそもそも働きませんので、若年層が生み出さねばならない商品やサービスの量はむしろ増加するはずで、失業率は逆に改善するはずなのです。繰り返しますが、高齢化や少子化によるGDPの減少は、本来、人口の減少に比例して経済規模が縮小することにより生じる総量の減少であり、経済の質が低下するために生じるわけではないのです。

では、なぜ景気が悪いままなのか?これは「GDPの質」が低下しているためです。そこに政府や日銀の経済政策の責任が問われるべきであるにもかかわらず、「高齢化や人口減少」という「不可避な条件」を、あたかもそれが原因であるかのように示すことで政府や日銀の責任を逃れしているようにしか思えないのです。

⑤世の中のおカネは日銀が作り出して社会に供給している

最も多くの人が誤解しているのは、これでしょう。多くの人は日銀が発行したおカネ「現金」が世の中に循環して経済を支えていると思い込んでいます。しかし実際に世の中に回っているおカネの90%は民間銀行が信用創造で無から作り出した貸付金である「預金」であり、循環しているおカネのほとんどがこれです。世の中のおカネは、もともと誰かが銀行から借りた「借金」であり、それがグルグル回っているわけで、もし世の中の人がみんな銀行に借りたおカネを返済したら、貸付金と預金が相殺されて世の中の90%のおカネは消えてなくなります。まるでなぞなぞですね。

そもそも日本銀行の発行したおカネがどのようにして世の中に出てくるのか?多くの人は理解していません。日本銀行の発行したおカネは、誰かが銀行に借金することで初めて世の中に出てきます。おカネを借りた人が、その借りたおカネで何かを買うことで初めておカネが流通しはじめるのです。おカネを刷るとインフレになると騒ぐ人がいますが、刷ったおカネがどこから世の中に出てくるか知っているのでしょうか?いくらおカネを刷っても、借金する人がいないとおカネは世の中に出てこない仕組みになっているのです。だから日本銀行が金融緩和して、ゼロ金利にして、国債を買い取って、銀行に現金をどんどん供給しても、世の中におカネは流れ出さない。そんな仕組みなのです。

しかし、おカネとは本来、銀行への借金としてあるべきなのでしょうか?おカネとはもともと公共財ではないのでしょうか?では、なぜ銀行に借金しなければ流通できないのでしょうか?この金融制度の基本的構造が唯一絶対に正しい方法であり、他に方法はないのでしょうか?とても面白いテーマだと思いますが、皆様はいかがでしょうか。

2010年9月19日日曜日

(10)バブル経済は本当に悪いだけなのか?

マスコミはバブル経済の負の側面だけを報道しますが、バブル経済で生産力が爆発的に拡大し、雇用が改善し、賃金が伸び、力強い景気に支えられて財政赤字も解消できるというプラス面はほとんど無視されています。バブル経済とは大量の通貨供給が経済に与えるプラス効果の証明なのです。
 
バブル経済をただ「悪いもの」として、そのときの現象すべてを否定することは思考停止にすぎません。確かに銀行制度の「信用創造」が過剰に働き、信用として爆発的な量の「借金」が世の中に流れ出し、それが限界まで膨れて破裂した事は、それに巻き込まれた多くの国民にとって不幸をもたらしました。しかも、それが現在に至るデフレの発端であったかも知れません。ですからバブル経済は決して良い物ではなく、繰り返すべきものではありません。しかし、バブル経済から教訓としてそれだけしか見出すことが出来ないとすれば観察力が不足しています。バブル経済のとき、少なくともその最中は好景気に日本が沸き立っていた。それを忘れてはならないのです。そこから学ぶべきものがあるはずです。

バブルは大量のおカネを作り出します。それは銀行の信用創造が生み出す架空のおカネではありますが、おカネなのです。そのおカネが大量に世の中に出回った結果、日本の景気は絶好調になりました。人々の賃金は伸び、消費は拡大し、雇用は人手不足が社会問題になるほどでした。ブランド品が流行し、高級車が飛ぶように売れる。安物の商品は見向きもされず、高付加価値の商品がどんどん売れる時代でした。これだけ景気が良くなると税収が増えるのは当然です。さて、バブルが悪いものだとしたら、この状況も悪い状況なのでしょうか? そんなはずはありません。崩壊してしまったから、今更のように全否定されていますが、このような状況がずっと続くのなら、人々は今ほど不幸にはならなかったでしょう。ですから本当はこのような好景気を再び実現して継続することを政府や政治家が目標とすべきであり、そこが経済学者の出番なのですが、彼らの多くはこの時代をただ「悪いもの」「まやかし」「虚構の経済」のように批判し、否定するだけで満足しています。これでは得るものは何もありません。

なぜこのような好景気が起きたのでしょう?それは大量のおカネの循環がもたらしました。おカネが消費を引っ張り、消費が生産を引っ張り、経済規模がどんどん拡大する。生産能力の限界までフルに回転する。日本にはそのようなポテンシャルがあったのです。今は当時ほどではないにしろ、日本には潜在的な生産力がまだまだ眠っているのです。そしてバブル経済で明らかになったように、おカネがそのポテンシャルを開放するキーになっているのです。以前の繰り返しになりますが、おカネがなければ経済は成長しません。逆におカネをどんどん増やせば、生産力がどんどん拡大して経済は成長します。成長力の限界以上に通貨を供給するとインフレを誘発しますが、成長力に見合う通貨供給であれば何の問題もありません。そして生産力をフルに生かす事で好景気となり、人々が必要とする様々な物資を十分に生産し、人々に分配する事で豊かな社会が実現するのです。

循環通貨量と生産力のバランスが非常に大切です。生産力に見合うだけの通貨を供給すれば、消費は拡大しますが商品の供給が十分に確保されるためにインフレは発生せず、商品が溢れ、失業も限りなくゼロに近づきます。逆に生産力に比べて循環する通貨の量が少なければ、消費が低迷してデフレとなり、商品の生産は減退し、失業率が増加して、貧富の格差が拡大します。今の日本は循環する通貨の量が減少してデフレ不況なのです。

だからこそ政府がもっとどんどんとおカネを供給すべきなのです。バブルがなぜ崩壊したか?それは通貨供給を「信用創造」が生み出す架空のおカネに依存していたためコントロール不能となり、バブルが発生して信用が拡大しつづけ、世の中に凄まじい量のおカネが溢れ出し、それが限界を超えるとバブルが崩壊し、信用収縮であっと言う間に世の中のおカネが消えてしまったからです。そして銀行への借金だけが膨大に残された。ところが、もし政府が輪転機を回しておカネを刷ったなら、そのおカネは消えることがありません。消えることの無いおカネを使えば、バブルも発生しませんが、バブルが崩壊する心配もありません。消えることの無いおカネこそが好景気を安定的に持続させるのです。

もし、通貨の供給により再びバブルが発生する事を心配するなら、土地や株式などの値上り益(キャピタルゲイン)に課税したり、いよいよとなれば銀行の信用創造に一定の制限(預金準備率引き上げ、金利引き上げ)をかければ済む事でしょう。バブルを元からしっかり予防する事が重要であって、バブルを恐れて通貨供給を渋ることは本末転倒です。通貨供給は経済にとって非常に大切です。

通貨の発行で日銀券の価値が落ちるなどの批判があるようですが、これはナンセンスでしょう。そもそも民間銀行が日銀券を何十倍にも膨らませて貸付けているのですから、それこそ銀行の信用創造が日銀券の毀損の原因そのものであるわけです。しかも社会が経済活動を行うために必要とされる通貨の総量は、経済規模(生産と消費)の拡大に伴って増加するわけですから、経済規模の増加にあわせて日銀券を発行しなければ、日銀券の価値が過剰に評価される事になります。これはデフレの原因に直結します。逆に経済規模が拡大するためには通貨の増量が先行して必要であるため、民間銀行の信用供給が進まない今日では、日銀券を先行して発行する必要があると思います。これが日銀券の毀損であるとするなら、経済成長を否定するようなものです。

バブル経済から学ぶべき事は、通貨の供給が如何に経済を活性化し、生産力を拡大し、失業を減らし、貧富の格差の少ない豊かな社会を実現するか、ということにあります。もちろん再びバブルによる過剰な信用創造によって通貨供給を増やすべきではないでしょう。そうではなくて、日本銀行が人々の経済活動を活性化するために、生産力とのバランスを取りながら現金つまり日本銀行券を積極的に供給し、通貨の循環量を拡大すべきです。もちろん、その通貨を銀行に供給しても何も変わりませんから、政府を通じて社会に直接供給されるべきでしょう。具体的には国民への給付金であったり、社会保障であったり、本当に必要とされるエネルギー自給率向上などの日本の将来のための公共事業であるのです。

2010年9月5日日曜日

(9)おカネが増えなければ経済は成長しない

はるか昔から、おカネを増やすことで国の経済が成長してきました。先におカネを増やすことで後から経済成長が付いて来る。だからこそ銀行は投資によって利益を揚げることができるのです。まずおカネありき。逆におカネが増えなければ経済は成長しない。なぜでしょうか。

身近な視点で考えて見ましょう。ある企業が100円の商品を10個生産していたとします。生み出される価値は金額換算で総額1000円になります。この企業の商品を買い取るために必要なおカネは総額で1000円です。世の中のおカネが1000円あればこの企業の商品はすべて売れますから問題ありません。生産性が向上し、企業の生産量が20個に増加したとします。生み出される価値は2000円になります。ところが世の中のおカネが1000円しかなければ、せっかく増えた商品は売れ残ってしまいます。これでは企業は不幸ですし、人々買える商品の量が増えずに不幸です。そのため、おカネが増えなければ、たとえ企業の生産力が増える潜在的な余力があったとしても、それを発揮することはありません。しかし、そこでたとえば国が1000円のおカネを作って人々に配給したら、世の中のおカネが増え総額が2000円になります。そうすることで、企業の生産した商品がすべて売れるし、人々も今までの二倍の商品を手に入れることができるようになります。生産力の成長に合わせておカネが増えなければ経済は成長できないのです。日本にどれほど生産力・労働力があっても、おカネがなければ決して経済は成長しません。

私たちは個人的な体験を通じて、生産活動や労働の結果としておカネが生まれるような錯覚を持っています。しかし実際にはおカネの方が先にあって、生産活動はあとから付いてきます。ニンジンと馬の関係と良く似ています。何も無い状態で馬を走らせることは難しいですが、鼻先にニンジンをぶら下げてやると走り出します。同じように、経済においては「投資」つまりおカネを先に投入してやることで、生産設備を購入し、労働者を雇用し、生産体制を整えることができるようになります。つまり、先におカネを作り出す必要があるのです。

経済成長するためにはおカネが必要になります。しかもおカネが先に必要なのです。おカネを増やすことで、ニンジンと馬の関係のように、経済がおカネに引っ張られて成長します。歴史的には銀行がこの役割を果たしてきました。銀行は帳簿上でおカネを作り出し、それを実業家に貸し出します。この時点では銀行は何の価値も生み出して居ません。帳簿上でおカネを作っただけです。無からおカネをつくるだけ。そもそもおカネに価値はないのです。ところが実業家がそれを使って工場を建設し、商品を製造することにより価値が生まれるのです。すなわち、おカネには無から価値を生み出す力があるのです。

おカネは無から価値を生み出す力がある。これがおカネのすごいところです。銀行はこれを利用して利息を得てきました。経済の成長に伴って必要になるおカネは増えるのですが、それを先に作って貸し出すことで利息を得るのです。そして銀行は民間企業ですから利益がすべてに優先します。ということは、銀行の作るおカネは、利息を得ることができないなら誰かに貸す事はできません。つまり経済成長が低下した今の日本ではおカネを貸しても利息が取れませんから、貸すことはできないのです。中国のように、まだまだ成長余力のある国に投資したほうが確実に利益になります。日本の世の中には、環境や高齢化、少子化などに伴い、まだまだ必要とされる設備も商品もサービスもあるし、生産設備も労働力も余っているにもかかわらず、利益にならないから作らない。おカネが無いから作れない。利益を得られなければ、何もできない社会なのです。これは潜在生産力を活用せずただドブに捨てているようなもので、非常に非効率的で非生産的です。利益中心のおカネの使い方を改めなければ、毎年何十兆円もの生産力が無駄に消えていくだけなのです。

銀行ができないなら、政府がやればよいではないか?そうです。 利息を得る必要の無い政府が行えば良いのです。銀行は民間企業ですから利益が基準です。非営利組織なら利益ではなく、人々の幸福度を基準におカネを使うことが可能です。最も大切なことは、通貨循環の量を安定させ、経済成長余力にあわせて通貨の量を増やしてゆくことです。それを政府が行えば良いのです。そしてそのおカネを利用することで将来の社会が必要とするもの~たとえば、新エネルギー設備(太陽・風力・波力・地熱などの発電設備)、老人用の施設、海洋食糧生産設備など~をどんどん作り出すことで、環境問題にもエネルギー問題にも高齢化社会にも食糧問題にも対応できる社会資本を充実させることが出来るのです。おカネを増やすと言っても、もちろん限度があります。経済の成長余力を上回る勢いで通貨を増やしても、生産能力が追いつかなくなり、インフレを引き起こす可能性があるからです。政府がおカネをコントロールすることは簡単ですので、その心配は無いでしょう。

経済成長するためにはおカネが必要になります。しかもおカネが先に必要なのです。そして今まではその役割を民間銀行の作り出す「信用創造」に依存してきました。その結果、世界は幾度と無くバブルと不況を繰り返すだけで、そのたびに無関係な人々が巻き込まれて資産を失い、膨大な不幸を生み出してきました。これが理想的な金融システムなのでしょうか?

政府が民間銀行におカネ作りを丸投げすることの問題は、ノーコントロールだという点にあります。民間企業である銀行は収益が最優先ですから、必然的に市場から要求されるがままにおカネを作って貸し出します。それは企業の宿命です。すると実体経済の成長を遥かに超える速度で借金が膨張しバブルが引き起こされ、それが限界まで膨らむとやがて破裂して、急激におカネが世の中から消えて無くなる。銀行は作り出したおカネの担保として人々から不動産などを回収できるから被害は少ないものの、無関係な多くの人々は一方的に巻き込まれて資産を失うことになる。おカネの供給はきちんとコントロールしなければならないのです。そのために日本銀行があると多くの人が信じていますが、日本銀行があっても、1990年頃のバブルはコントロールできす、逆に最近はデフレがコントロールできません。日本銀行にはその能力が無いのです。

政府がおカネを直接きちんと管理して通貨の安定的な供給を直接行うべきなのです。通貨は民間銀行が好き勝手に供給すべきものではなく、公共のものであり、政府が管理すべきものなのです。

2010年8月28日土曜日

(8)貯蓄の功罪、貯蓄への課税

日本人の美徳である倹約や貯蓄はどうして日本経済の足かせになっているのか。それは生活必需品のニーズが経済成長を支えていた時代が終わり、生活に必ずしも必須ではない高付加価値な商品のニーズが経済成長を支えるようになったためだと思うのです。

戦後の日本はまだまだ人々が必要とする「生活必需品」のニーズを満たすために十分なほどの生産力がありませんでした。生活必需品である商品もサービスも不足していた。だから生産設備をどんどん作る必要があったわけです。工場や工作機械が必要だった。様々なインフラが必要だった。その時代にあっては、消費よりもまず生産設備を作る必要があったわけです。人々が無駄をなくし、倹約し、貯蓄したおカネは「設備投資」として生産能力を高めるために使われ、そのおかげで安くて良質な商品をどんどん作り出せるようになったのです。貯蓄は死蔵されること無く、「設備投資」として生産設備の増強に振り向けられて循環したため、生産の拡大と消費の拡大が同時にバランス良く進行し、これが経済成長の原動力となり、循環するおカネの量が減ることはありませんでした。それで日本は豊かになりました。つまり、その時代においては日本人の勤勉で貯蓄好きという特質が非常に有効だったわけです。もし日本人が浪費好きで、生産能力を高めることなく消費のみに走ったとすれば、消費加熱からインフレを招いたり、供給不足から外国の輸入品が増大して貿易赤字となり、今のギリシアのようになっていたかも知れません(ギリシア最大の問題は財政赤字ではなく貿易赤字)。日本人の貯蓄好きで勤勉な国民性がインフレを抑え、生産力の拡大を実現したのです。実にすばらしいことではありませんか。

21世紀の日本では生産力が十分に高まったおかげで、人々が切実に欲しいと感じる「生活必需品」のニーズは満たされるようになりました。だから生産設備をどんどん作る必要はなくなりました。生活必需品のニーズが経済成長を支えていた時代が終わり、付加価値が高いけれど生活に必ずしも必須ではない商品のニーズが経済成長を支えることになったのです。これは非常に重大な変化です。より高付加価値な商品のニーズは生活必需品のニーズに比べて個人の所得や心理に影響されやすい性質を持っています。バブル崩壊後の日本人の消費者心理の冷え込みと、デフレによる給与所得の減少で高付加価値商品のニーズは激しく落ち込んでしまいました。そのため人々の「消費」も激減してしまいました。こうなると消費と並んで通貨循環を担う重要な要素である「設備投資」も行われなくなります。

その一方で、人々は倹約に励んで貯蓄を続けたために貯蓄がどんどん膨らみました。それらのおカネは活用されること無く、投資先も無いまま死蔵されてしまい、そのためにおカネが循環しなくなります。おカネが循環しなくなると人々のお給料が減り始めます。給料が減ると日本人は不安になるので、おカネを貯蓄しようとします。するとますますお給料が減ります。悪循環です。行き着く先は、人々が必死に貯蓄を握り締めたまま皆が失業して飢えてゆく世界かも知れません(極端な話ですが)。このように日本の消費構造が「生活必需品」から「高付加価値商品」へと大きく変貌したため、倹約や貯蓄がかえって日本経済を冷え込ませる結果をもたらすようになったのです。現在のデフレ不況は貯蓄過剰に原因があり、貯蓄によってお金が循環しなくなったために生じているのです。

政府の財政赤字が拡大している現状をみて「国債の発行が問題だ」と言われますが、そもそもなぜ国債を発行する必要があるのでしょうか。それは単に政府の歳入を補うという意味だけではありません。貯蓄が増えることでおカネが回らなくなり、そのために経済が停滞することを防ぐためなのです。国債を売って貯蓄を吸い上げ、それを人々の代わりに政府が「政府支出」として使うことで通貨の循環を維持することを目的としている側面が大きいのです。おカネを貯め込む人がいるから、経済の活性を損なわないように国債を発行しなければならない。国債発行は国家にとっては苦汁の選択なのです。

国債を発行しないほうが良いに決まっていますが、もし国債を発行しなければ、おカネはますます回らなくなり、デフレはいっそう酷い事になるでしょう。人々がおカネを貯めることをやめて消費するようになれば国債に頼らなくても通貨循環量が増えますから経済は活性化します。それによって税収も増え、国債を発行する必要もなくなります。国債が増えるのは政府の無駄遣いが多いからだという人が居ますが、そうではありません。無駄遣いを減らせば一時的に国債の発行額は減りますが、無駄遣いを減らしておカネを使わなくなることで通貨循環がますます低下することとなり、税収がさらに悪化して歳入不足の問題が再発します。過剰な貯蓄を続ける限り国債を減らすことはできません。とはいえ、日本人の資質がそう簡単に変わることはないでしょう。日本人は質素倹約・貯蓄型の民族なのです。そしてそれはまた日本人の誇るべき資質であるはずです。では、どうすれば良いのでしょう。

私たちにとって貯蓄はとても大切です。住宅を買うための頭金を貯めたり、子供の入学金を貯めたり、病気や失業に備えて貯めたりします。そして、それが実際に役に立つのです。だから貯蓄しないわけには行きません。貯蓄は大切です。しかし限度があります。もし必要以上に大量のおカネを貯め込む事で社会の通貨循環を低下させ、経済を衰退させている人がいるとすれば、それなりの対価を負担していただく必要があるでしょう。つまり税制の改革です。

現在の税制の多くは循環する通貨(フロー)に課税する方式です。法人税も所得税も消費税もぜんぶこれです。ところがこの税制では現在のようにデフレのために循環する通貨量が減る状況では税収も減少せざるを得ません。これでは財政の建て直しなどできるはずがないのです。一方で現在の税制では貯蓄(ストック)にまったく課税されていません。このことが消費を減らし、貯蓄を増やす一因にもなっています。デフレになると貯蓄が増える傾向にあるので、もし貯蓄に課税すれば、デフレ経済の下でも税収が増えることになり、デフレ環境下での財政再建は容易になります。

最近はマスコミも政治家もこぞって「消費税増税はやむなし」を演出していますが、ここで説明したことをご理解していただけるなら、消費税のように循環する通貨に課税しても、根本的な解決には程遠いことがお分かりいただけるでしょう。むしろ貯蓄のような金融資産への課税が必要なのです。欧米諸国の消費税が高いからと言って、日本の消費税を上げる根拠にはなりません。日本には「日本人の気質にあった税制」が必要なのです。マスコミや政治家は銀行への配慮から「金融資産への課税はタブー」として議論すらしませんが、これでは税制の根本的な改革は出来ません。

デフレ不況ではむしろ法人税、所得税、消費税など、おカネの循環を妨げる税制の税率を大幅に引き下げ、貯蓄のように使われていないおカネを税として吸い上げ、おカネの循環を増やす税制こそが経済の原理にかなっています。おカネの循環が増えると景気は必ず回復し、日本経済を再び活性化してくれるはずです。そこで初めて財政再建が可能になるのです。

そして、おカネの強力な循環が実現すると、生み出されるモノやサービスが増加し、生産に裏付けられた税収が増えることによって年金などの社会保障を支えることができるようになります。つまり、ストックではなくフローに基づく社会保障が可能となるのです。豊かな社会とは、貯蓄が実現するのではなく、生み出されるモノやサービスが実現してくれるのですから。

2010年8月22日日曜日

(7)おカネを使えば使うほど収入が増える

おカネは使えば使うほど収入、つまりお給料が増えていく仕組みになっています。ところが多くの人がこの仕組みを理解していません。それは無理もないことです。なぜなら一般の人や企業にとってのおカネの性質と、国の経済にとってのおカネの性質が全く異なるからです。

例えるなら、一般人や企業にとっておカネは直線的であり、収入として得たおカネは支出として出てゆくだけです。一方、国家の経済(マクロ経済)において、おカネは環状であり、生産者と消費者の間をぐるぐる回っています。収入として入ってきたお金は支出として出てゆきますが、それは次の収入の原資になるのです。ですから、支出が増えれば収入が必ず増えます。このことを常に意識しなければ経済問題を理解することはできません。

一般の人にとって「おカネを使えば使うほど手元のおカネが減る」のが常識ですが、マクロ経済からみれば「おカネを使えば使うほど通貨循環量が増大して手元のおカネが増える」のが常識です。つまり、家計と国家ではまったく正反対の常識を持っています。家計と同じ仕組みで国家経済を考えることは無意味です。まず経済を理解するには、このことをしっかりと認識し、違いも理解しなければ始まらないのです。この仕組みを間違えると、同じ前提でも結論は正反対になります。

わかりにくいでしょうから、もう少し具体的に考えてみます。

経済全体を単純化して考えてみましょう。多くの企業で従業員が働いて商品が生産されます。従業員には労働報酬として企業から給与がおカネで渡されます。従業員はそのおカネで企業から商品を買います。するとおカネは企業へ戻ります。そのおカネを元に再び工場で商品が生産されます。これを延々と繰り返しています。おカネは企業と従業員の間をぐるぐる回り、そのおカネの循環(通貨循環)に乗って商品が企業から従業員へ渡り、従業員からは労働力が企業へ渡っています。まるでおカネはベルトコンベアのようです。このおカネの循環の量が大きければ大きいほど景気が拡大し、人々は豊かになります。

もし、従業員がより多くの商品を買ったとしたら、つまりたくさんおカネを使ったら、そのぶんだけ企業へ戻るおカネの量が増えることになります。すると企業はたくさん売れた分だけ生産量を増やして、その対価として従業員の給料を増やします。ですから、従業員が商品を買えば買うほど給料が増えるのです。もちろんこれはモデルですから単純にそうなりませんが、大枠では必ずその方向へ動きます。

このようにして、おカネをたくさん使えば使うほど人々の収入が増えるのです。では、逆の場合はどうなってしまうのでしょうか。

もし、従業員がもらったおカネを使わず貯蓄してしまったら、そのぶんだけ企業へ戻るおカネの量が減ることになります。すると企業はおカネが減った分だけ生産量を減らして、その対価として従業員の給料を減らします。ですから、従業員が貯蓄を増やせば増やすほど、従業員のお給料が減るのです。もちろんこれはモデルですから単純にそうなりませんが、大枠では必ずその方向へ動きます。

ゆえに、経済を活性化する、つまり人々の給料を増やし、様々な商品やサービスを生産して人々に供給するためには、貯蓄を減らし、消費を増やさねばならないのです。消費を増やせば増やすほどお給料が増えて、人々は豊かになれます。これは個人の収支レベルで考えると変に聞こえるかもしれませんが、国家レベルの大きな視点から考えれば当たり前のことです。ですから今の日本が不況から脱出するためには、貯蓄をやめ、消費を増やさねばならないのです。

すなわち、日本人の伝統的な価値観であり、美徳でもある「無駄をなくす」「倹約する」「貯蓄する」では経済を立て直すことができません。貯蓄をやめ、消費を増やさねばならないのです。とはいえ、こんな不安定で不況の社会において、貯蓄をやめ、消費を増やすなど私たちにとっては自殺行為です。では、どうすれば良いのでしょう。解決策は無いのでしょうか。

2010年8月15日日曜日

(6)永久に借金の無くならない社会

財政赤字がマスコミで騒がれていますが、今の日本で財政が黒字になると経済はどうなるのでしょう?世の中のおカネが不足して、ますます不況になります。なぜなら世の中のおカネはほとんどが借金から出来ているからです。財政赤字の問題はここを理解できなければ永遠の迷宮に入り込んでしまうのです。

前回と同じ話になってしまいますが、世の中のおカネのほとんどは民間銀行が帳簿上で作り出して人々に貸し与えているおカネから出来ています。この仕組みが「信用創造」と呼ばれます。この信用創造で作りだされた借金が世の中にどんどん循環して経済を支えています。誰かの借りた借金が世の中にぐるぐる回っているのです。あなたの預金通帳の中のお金も、もともとは誰かの借りた借金がめぐりめぐってそこにあるのです。世の中のおカネは9割が借金からできています。

そこから生じる問題はいくつも考えられますが、その一つは、借金を返済する際に利息を上乗せしなければならないということです。借りたおカネより返すおカネが常に多いわけです。じゃあ増えたおカネはどこから来るのか?世の中に出回っているおカネのほとんどは借金から出来ていますから、借金を返済するときの利息も元々は誰かの借金から来ているわけです。つまり、誰かが借金をしないと利息の支払いができなくなってしまいます。その借金にも利息の支払いが付いてくる。つまり、利息を払うためには、永久に借金を増やし続けなければならないことになります。もし、景気が悪くなって人々がおカネを借りなくなってしまったら、世の中のおカネは借金の返済と利息の支払いでどんどん減り続け、おカネ不足で経済は破綻し、払えるはずの無い「借金の利息」だけが膨大に残されます。なぜ世の中から借金がなくならないのか?それは上記のように、現在の銀行制度が借金を未来永劫どんどん拡大しなければ成り立たない仕組みになっているからなのです。日本は永久に借金の無くならない社会なのです。借金が永久に増え続ける仕組みなのです。

なぜ国債がなくならないか?その理由もそこにあります。経済が右肩上がりで成長した時代にあっては、国が国債(国の借金)を発行しなくとも民間が借金をどんどんしてくれますから、世の中のおカネは増え続け、利息の返済も可能です。ところが不況で民間が借金を減らそうとしている今の日本では、もし国債の発行をやめたら、世の中からおカネがどんどん無くなり、経済は破綻し、借金の山だけが残されるのです。確かに今の財政は無駄遣いが多いことも事実でしょう。無駄遣いを止めれば国債の発行額は減らせるでしょう。しかしこの問題がある限り、国債の発行を減らすにも限界があるのです。もし財政が黒字化したら?借金の利息の支払いはすべて民間に降りかかることになるでしょう。

おカネなら個人の金融資産が1500兆円もあるではないか。確かにそうです。しかし、その1500兆円も、もともとは「無から生み出されたおカネ」を元にしているため、借金をする人より返す人が多いなら徐々に減少を続けるでしょう。誰かが借金を増やさなければ金融資産は減る運命にあります。今は日本政府が国債を発行して借金をどんどん増やしているため、そのおカネが個人の資産に流れ込み、逆に個人の金融資産が増えたりしますが、国債の発行を止めれば金融資産も徐々に消えて無くなるのです。

つまり現在の金融制度では、銀行が架空に作り出した「預金」が世の中のおカネの9割を占めているため、おカネは消えてなくなる宿命にあるのです。そして、おカネが消えて無くなるとデフレを引き起こすのです。現在の金融制度では、この致命的な欠陥を補うために、国債を発行し、おカネが消えて無くならないように借金として作り出したおカネを世の中に流通させる必要があるのです。ですから余程の好景気で民間が借金を拡大し続けない限り、国債がゼロになることはあり得ないでしょう。

では、消えてなくなるお金で経済を支える必要があるのでしょうか?預金という架空のおカネに依存する必要があるのでしょうか?そんな必要はどこにもありません。消えて無くならないお金、つまり「現金」で経済を支えれば良いのです。現金とは日本銀行券であり、紙幣のことです。つまり、銀行が帳簿操作でおカネ(預金)を作り出す割合を減らし、そのぶんだけ国がおカネ(現金)を作り出せばよいのです。人々の経済活動に必要なおカネを国がきちんと準備するのです。

不況が引き起こす信用の収縮で減少するおカネを補うために国債を発行するという、今の政府のやりかたは不健全です。不足するおカネを現金(日本銀行券の発行)で補うべきなのです。国債は利息の支払いを将来の世代に残す問題がありますが、日本銀行券の発行にはそのような心配はありません。むしろ通貨の循環量を増やして将来の経済に明るい展望を開くでしょう。仮にインフレになっても、そのつけは現代の世代が払うことになり、国債のように将来の世代に負担を残すことにはなりません。しかもインフレターゲットを設定して、その範囲内で量をコントロールしながら、国による通貨供給を行うことにより、インフレを抑えることは容易です。インフレをコントロールする手段は非常に豊富にあるのです。そのように、インフレターゲットを設定して、その範囲内で量をコントロールしながら、国による直接の通貨供給を行うことにより、消えてなくなってしまうお金に依存しない、安定した経済を目指すべきです。

借金から生まれるおカネに依存する経済は永久に右肩上がりの経済成長が前提で成り立つシステムです。将来に向けてサスティナブル(持続可能)な経済を実現するためには、金融システムの大胆な改革が避けられないのです。

2010年8月8日日曜日

(5)銀行制度の課題

前回の話をもう少し簡単に考えてみましょう。ここで理解いただきたい事は、信用創造とは何か?という事です。信用創造とは銀行が、自身の保有している現金を何倍にも膨らませて人々に貸付ける仕組みです。これがバブル期に大量のあぶく銭を放出し、その後の破綻でお金不足の恐慌を引き起こす原因となっているのです。

あなたがもし現金で100万円を持っていて、誰かに貸すとします。持っているおカネは100万円ですから、普通は他人に貸すことのできるおカネは100万円まででしょう。しかし、銀行は100万円を持っていると1000万円貸すことができます(実際にはさらに多く)。これが信用創造と呼ばれる手法です。現金100万円を元に1000万円を作り出し(信用創造)、100万円を10人に貸し付け、それぞれから利息を得ますから、普通に100万円だけを貸す場合よりも10倍多くの利息を手にすることができます。これは銀行だけに許された特権で、一般の個人や企業がこれをやると犯罪になります。

はて、100万円しかないのに、どうやって合計1000万円を貸すことができるのか?そこで登場するのが「預金通帳」です。誰かに100万円を貸すと言っても、現金で貸す必要はありません。銀行がまず借用証に貸し付け金額100万円を記入します。次に借り手が借用証にサインします。そして銀行が借り手の預金通帳に「預金100万円」と記帳するだけです。これで借り手に預金100万円が貸し付けられました。現金は一切動かず、そのまま金庫に残っています。現金を貸す必要は無いのです。おカネを借りた人は、この通帳に記帳された100万円を使って様々な支払いを行いますから現金は不要なのです。銀行は現金ではなくて預金を貸すのです。預金は帳簿上で無限に増やす事ができ、それを借り手の預金通帳に100万円と記帳するだけで貸し出しできます。これなら現金を100万円しか持っていなくとも、10人にそれぞれ100万円を貸し付けることなど簡単なことですね。このような手順で、実際には法的に制限さえなければ、無限に貸し出しを増やすことができるのです。つまり、借金という形でおカネは無限に増やせるのです。これが信用創造です。

預金とは銀行が誰かに貸すために作り出したおカネであることがわかりました。現在の日本ではおよそ現金が70兆円ありますが、預金は400兆円もあります。つまり世の中のおカネの9割近くが誰かが借りた借金なのです。このお金は借金ですから、借り手が借金を返済してしまうと、このカネは消えてしまいます。景気が良くて借り手が多いうちは良いのですが、不況で借りる人が減ると、世の中のお金はどんどん減り始めます。世の中のおカネの量が減ると言うことは、デフレを引き起こす原因になります。つまり、デフレの原因は現在の銀行制度そのものにあるのです。

さて、銀行は他人におカネを貸す場合に借り手からそれぞれ担保を入れさせます。100万円を元に10人から合計で1000万円に相当する担保を取ります。もしおカネを貸したうちの5人が借金を返せない場合は、500万円の貸付金は損失になりますが、かわりに500万円分の担保が銀行のものになりますので、損するどころか、資産を手に入れることができるわけです。ここが大変重要です。前述のように、銀行は預金通帳に100万円と記帳するだけで特に何の価値も生み出してはいないのですが、現実に価値のある担保を要求することができます。

これは何を意味するでしょう?ある一定の割合で貸し倒れが発生するとすれば、時間の経過とともに世の中の資産は徐々に銀行に吸収されていくことになります。十分に長い時間があれば、やがてはすべてが銀行の物になることになります。奇妙に聞こえますが、理論的にはそうなります。

このように書くと、何か銀行が悪いことをしているように感じられる方もおられるかも知れませんが、別に銀行は合法的なことをしているだけで、悪いことは何もしていません。銀行を非難するなど無意味な感情論に過ぎません。そうではなくて、現在の銀行制度が社会のシステムとして機能的か、機能的でないかを考えているわけです。そして、社会のシステムとして、現在の銀行制度に問題があるならば、変革しなければならないはずです。

この制度で問題なのは、銀行が100万円の現金から1000万円のおカネを生み出すという仕組みにあります。信用創造と呼ばれる仕組みです。信用創造によって民間銀行が無から創造したおカネは非常に不安定で、景気変動で簡単に増えたり減ったりしてしまいます。現在の社会はこのような非常に不安定なおカネに経済活動が依存しているため、バブルと恐慌を繰り返します。おカネに実体経済が振り回されることになるのです。もともと経済には好景気と不景気の波があるのはやむを得ないことでしょう。しかし信用創造はその波を何倍にも増幅して、社会に極端な影響を与えます。つまり好景気の時はお金を必要以上にどんどん放出し、景気が悪くなるとお金を極端に縮小してしまうのです。経済活動はもっと安定したおカネが担わねばなりません。

安定した経済には安定したおカネが必要です。借金として生み出される不安定なおカネではなく、消えてしまう心配の無いおカネが必要です。預金は借金の生まれ変わりであるため消えてしまいます。しかし現金が消える事はありません。ですから、現金の重要性をもっと高め、現金を主体とする通貨制度にする必要があると思うのです。もちろん、現代社会ではおカネの9割が借金から出来ているわけですから、急に現金中心の通貨制度に変更などすれば大混乱を引き起こすかも知れません。ですから、時間をかけて徐々に世の中のおカネの割合を預金中心から現金中心に変えていくわけです。現金は急に増えたり減ったりしませんので、インフレもデフレも穏やかになります。バブルなどを引き起こすこともなくなります。

2010年7月31日土曜日

(4)通貨は誰のものか?


さて経済の具体的な問題について考える前に、現代の経済において欠かすことのできない「通貨」について考えておかねばならない大切なことがあります。「通貨はだれのものか」。

私たちのお財布に入っているおカネは自分のものです。とはいえ、それはモノやサービスと交換すれば他の人のものになる。つまり人々の間をぐるぐる回っている。では、そもそもおカネとは誰のものなのでしょう。おカネは政府が発行する、だから「みんなのもの」「公共財」と多くの人は考えるでしょう。ある意味でおカネは経済活動におけるインフラなのかも知れません。おカネは社会にとって非常に重要なので、政府が発行し、政府が管理すると多くの人が思い込んでいます。しかし、実際に大部分のおカネを作り出しているのは政府ではなく民間の銀行です。

は?と思われるでしょう。実はおカネには2つの種類あるのです。一つは中央銀行、日本では日本銀行が刷る「現金」すなわち日本銀行券であり、もう一つは民間銀行が帳簿上で作り出す「預金」と呼ばれるおカネです。そうです、預金とは民間銀行が帳簿上で作り出したおカネです。基本的に預金には裏づけが何もありません。そして銀行は帳簿上で作り出した預金を元に人々に貸付を行います。つまり、世の中に流通しているおカネの大部分は日銀が刷ったおカネではなく、銀行が無から作り出して人々に貸したおカネ、すなわち人々の「借金」です。これはどういうことでしょうか。

私たちは「銀行は人々から集めたおカネを誰かに貸して利息を得ている」と教えられてきましたが、それは銀行の一つの側面にすぎません。実際には銀行が誰かにおカネを貸す場合、保有している現金の額とは関係なく貸し出しを行います。つまり元手となる現金の何倍ものおカネを貸し出すことができるのです。このことを正確に理解するためには財務管理の基本である貸借対照表について簡単に知る必要がありますが、ここでは省略します。銀行が誰かにおカネを貸す場合、この貸借対照表の操作を行うだけで、原理的には無限におカネを貸し与えることができるのです。嘘のような本当の話です。自分も初めてこのことを知ったときには愕然としました。なぜか世の中のほとんどの人はこの仕組みを知らずに生きているのです。

銀行が人々におカネを貸し与えた瞬間におカネが生み出されます。つまり世の中のおカネのほとんどは「銀行への借金として生み出される」のです。これが「信用創造」と呼ばれます。そして、銀行への借金として生み出されたおカネが経済を支える仕組みになっています。すなわち、銀行への借金が増えなければ、世の中のおカネが増えない仕組みになっているのです。現在の社会は銀行へ借金しなければ成り立たない仕組みになっています。ウソのような本当の話です。

おカネは社会にとって非常に重要なので、政府が発行し、政府が管理すると多くの人が思い込んでいます。しかし、実際におカネを作り出しているのは政府ではなく民間の銀行です。日本銀行が発行した現金(日本銀行券)を元手に民間の銀行が帳簿上でおカネを作り出し、企業や個人に貸すことで初めておカネが増えるのです。そしてこのおカネは借金として生まれたおカネですから、借金の返済により「消えて無くなるおカネ」なのです。

景気が良いうちは借金して投資する人や企業が多いですから世の中のおカネは増え続けます。借金を返す人より借りる人のほうが多いため、世の中のおカネは増え続けます。問題ありません。しかし、もし景気が悪化して借金をする人が減り、借金を返す人が増えるとどうなるでしょう。おカネを借りる人より、おカネを返す人が多いため、世の中のおカネは減り続ける一方になります。社会は通貨不足で経済活動がますます停滞することになります。ここに何か違和感を覚えるのは私だけでしょうか?

信用拡大とか信用収縮とか言いますが、信用とは「銀行への借金として生み出されたおカネ」です。バブルはこの「信用拡大」でどんどん生み出される大量の「借金」が土地や株式などの資産の転売(ころがし)に使われ、資産価格の上昇を招く現象です。つまりバブルは信用創造が背景にあって生まれます。信用創造が過剰に働くと世の中におカネが増えすぎて、インフレを引き起こします。そして限界まで膨れたバブルが崩壊すると、今度は「信用収縮」が生じて、おカネが世の中からどんどん消えていきます。信用創造で無から生まれたおカネは、信用収縮で消える仕組みになっています。おカネが消えると世の中はおカネ不足となりデフレを引き起こします。つまり、信用創造に依存した通貨制度は、いったん収縮が始まるとデフレの元凶となるのです。そしてバブルに無関係な多くの人々が、これに巻き込まれて資産を失うのです。バブルの原因は現在の通貨制度そのものにあることがわかります。

ということは、経済にとって大切なおカネの供給を、民間銀行への借金、すなわち「信用創造」に頼ることが経済の安定的な発展にとってふさわしいのか?あるいは政府がおカネをきちんと管理して通貨の安定的な供給を行うことが望ましいのか?少し考えるなら、誰の目にも結論は明らかでしょう。

政府が市場に過剰な干渉をする必要はないでしょう。政府が干渉しすぎるとかえって非効率化による生産性の低下を招きます。市場は民間に任せたほうがよいでしょう。一方、その市場が載っている土台は金融制度です。ゆえに金融が安定しなければ市場は大混乱に陥るのです。金融の安定化こそは政府の最重要任務であり、それを民間銀行に丸投げする今の制度は、非常にリスクが大きいのです。実際、過去に何度も何度もバブルと恐慌を繰り返してきました。政府がおカネを直接きちんと管理して通貨の安定的な供給を直接行うべきなのです。通貨は民間銀行が好き勝手に供給すべきものではなく、公共のものであり、政府が管理すべきものなのです。

最後に、勇敢にもおカネを公共財として取り戻すために政府通貨を発行した結果、何者かに暗殺されてしまった米国の大統領「エイブラハム・リンカーン」の言葉をネット上のサイトから転写します。

政府の支出力と消費者の購買力を満足させる為に必要な通貨と信用の創出、発行及び流通は政府が行うべき事柄である。
通貨の創出と発行に係る特典は政府に属する最高の特権であるのみならず、政府が創造的活動を行う最大の機会でもある。
これらの諸原則を採用する事で納税者達は莫大な金額の利子を支払わずに済むようになる(注:国債の金利のこと)。通貨は人間性の主人たるを止め、それに仕えるものとなるだろう。

(あるネット上のサイトから転写:http://www.anti-rothschild.net/material/animation_06.html)

2010年7月23日金曜日

(3)科学技術が人々を貧しくする現代経済の矛盾

科学技術が進歩して生産性が向上すれば人々の生活は豊かになると誰もが思うでしょう。ところが現実はその反対です。科学技術の進歩により、安い価格で大量の商品が生産できるようになると、逆に失業がどんどん増えるのです。今まさにその矛盾が日本を襲っています。

科学技術が進歩して、機械やコンピューターが人々の労働を軽減してくれるなら、人々にゆとりが生まれ豊かな社会になる。子供の頃、多くの人はそう信じていたはずです。たとえばすごく高度なロボットが現れて、人々の代わりに労働をすべて担ってくれるなら、人々は労働から解放されるはずです。そして、人々はスポーツや芸術や学問の場で競い合うことによって、人間のさらなる可能性を追求するようになる。まあ、すこし現実離れした夢のような話ですが、でも、科学技術が進歩すれば、その夢に向かって徐々にでも前進するはずでしょう。

ところが現実は逆です。科学技術の進歩で生産性が高まると、労働力がいらなくなります。すると企業はコストダウンのために人々を解雇するようになります。コストダウンにより企業は、より安い価格で商品を大量に生産できるようになります。ところが日本のあちこちの企業で同じように生産性の向上に伴って人々を解雇するようになると、社会にどんどん失業者が増えます。失業者が増えることで商品を買うことのできる人も減ってしまいます。すなわち、技術革新により安い価格で大量の商品が生産できるようになる一方で、それを買える人がどんどん減っていくのです。そして商品を買える人が減るため商品が売れ残るようになり、デフレになってしまいます。驚くべきことに科学技術の進歩が原因で経済が衰退するのです。その引き金を引くのは「コストダウン」というおカネと市場の理論です。「生産と分配」という本来の目的を無視しておカネの理論が暴走しているのです。

少し考えれば、多くの人がこの異常な矛盾にすぐに気づくはずです。ところが、政治家も経済学者も、当然ながらマスコミも、この最大の矛盾を正面から問題提起する人は誰もいません。未だかつて、その答えを聞いたことも見たこともありません。

かつて終身雇用制の日本では、このような矛盾は露骨に表面化してこなかった。なぜなら、終身雇用だからコストダウンのために、簡単に社員を解雇することはなかったからです。確かに社員を首にできないぶんだけコストは下がりにくかったかも知れないが、逆に失業が増えないことで人々の購買力は維持され、商品が売れなくなることもなかったのです。それが日本の高度成長期の厚い中間所得層、いわゆる「総中流」の実態であり、これが貧富の格差の少ない日本を実現していた。物価は高くとも、貧富の差は少ない社会だった。

ところがアメリカからグローバリゼーションと新自由主義が導入され、雇用の流動化が進む中で終身雇用制は崩壊し、企業はコストダウンのために容易に社員を解雇するようになった。これによりコストダウンが実現し、物価は安くなり始めたが、逆に人々の賃金が低下し、失業が増加することになり、国内の消費者の購買力は不況もあいまって低迷を続けた。その結果、せっかくコストダウンで大量生産した商品も国内では売れず、結局は海外へ輸出せざるを得ない状況になった。事実、日本の貿易依存度は近年延び続けている。

技術革新により、安い価格で大量の商品が生産できるようになる一方で、それを買える人がどんどん減っていく。これは貨幣経済と市場経済のメカニズムが内包する致命的な欠陥です。「生産と分配」という経済本来の目的を無視しておカネの理論が暴走しているのです。これを「グローバリゼーションと新自由主義」の立場から放置を続けると、貨幣経済と市場経済の暗黒面がどんどん拡大して、やがて日本の経済が崩壊してしまうでしょう。

科学技術の進歩と生産性の向上を、真に人々の生活のために、そして人類の無限の可能性を追求するために役立たせる仕組みを真剣に考える必要があるはずです。そしてそれは、新しい「おカネの仕組み」によって実現されると思うのです。

(補足)

今まで貨幣経済と市場経済の矛盾を防ぐ唯一の方法として主流だった考えは「新しいニーズの開拓」です。新たな商品に対する人々の欲求を刺激することで需要を生み出し、その需要を満たすための商品を生産することで仕事が生まれ、失業していた人が職を得るわけです。しかしこの方法では生産性の向上に伴って限りなく欲求を拡大し、生産量を拡大し、大量生産、大量消費を続けなければなりません。永久に右肩上がりに大量生産・大量消費を拡大する。そんなことは可能でしょうか?不可能です。そして現実に人々の欲求が拡大しなくなった現在の日本は、技術の進歩と生産性の向上が原因で経済は衰退を続けています。もし日本人の欲求が拡大し続けていたなら、日本経済は今とは違ったものになっていたはずです。

「生産性の向上ではなく、中国からの輸入が原因だろう」と言う人もいるでしょう。しかし、それも生産性の向上の一種です。この生産性の向上は技術革新ではなく、グローバリゼーション(国際分業)が引き金です。中国で安く生産できるようになるということは、コストダウンを意味し、コストダウンとは実質的に生産性の向上を意味するからです。技術革新でコストダウンすることと同じです。ロボットが人間の代わりに労働してくれるように、日本人の代わりに中国人が労働してくれるわけです。それで、日本人は生活必需品を作る必要がなくなったのです。その分だけ、日本の失業者が増えるのです。

2010年7月17日土曜日

(2)経済の基本は「生産と分配(消費)」

経済とはそもそも何でしょう。経済とは私たちが生活の糧を得るための最も基本的な活動の総称でしょう。ではそれは具体的には何か。私たちが生活に必要とする物資やサービスを生産すること、そしてそれを他の人と分け合うこと、交換することです。経済の本質はカネを生み出す活動ではないのです。

この本質を忘れて、経済の話というと「お金の収支の話」「おカネの価値の話」に迷い込んでいる人々があまりに多いのではないかと感じるのです。曰く、やれ国債の発行で国の借金がGDPの二倍だ。増税しなければ財政破綻する。通貨発行はハイパーインフレになる。すべておカネの理論ばかりです。それならば、カネの問題が解決すればそれで良いのでしょうか。国債を発行しなければ景気が良くなるのでしょうか。消費税の増税で国の財政収支が合えば人々は幸福になるのでしょうか。インフレさえ起こらなければデフレで国内の生産力がどんどん衰退しても、失業が減るのでしょうか。マスコミをにぎわす「おカネの理論」は、ただ人々の不安を煽り立てるだけで、統合的に課題をまとめ、解決策を提案することがないのです。これは大問題です。

おカネ中心の物の見方から少し離れて経済の基本である「生産と分配(そして消費)」の視点から同じ現象を分析してみると、違った側面が見えてきます。考えればすぐわかることですが、私たちの生活に必要なのはカネでは無くてモノやサービスです。住宅も衣類も食品も、家具も家電製品も、すべてモノですし、医療や福祉や観光や娯楽はサービスです。カネが幾らあっても、モノやサービスが不足していれば人々の生活は貧しくなるのです。逆に財政赤字だろうが、インフレだろうが、モノやサービスが十分に生産されるなら、人々の生活は豊かになるはずです。

ところが、現実の社会ではそうなっていません。たしかに世の中にはモノやサービスが溢れています。つまり人々が必要とするだけの十分なモノやサービスが供給されています。むしろ余っています。生産過剰なのです。にも関わらず一方ではモノやサービスを十分に得ることの出来ない人々、いわゆる「貧困層」「ワーキングプア」などの人々がどんどん増加しています。これはある意味で大変に不思議な現象です。人々のニーズを満たすのに十分すぎる生産力(供給力)がありながら、その一方で貧困(供給不足)が生まれている。失業により収入を絶たれた人々が増え、その一方で仕事のある人々には労働が集中し、サービス残業や過労死の問題が蔓延している。明らかにバランスを欠いています。その原因は生産と分配を無視したおカネの理論にあるのですが、そのことは徐々に分析してゆくことにします。

経済の原点は「生産と分配」です。おカネではありません。もちろん、実際におカネは大変に便利なものであり、おカネの利点を否定することはできません。おカネは生産と分配の仲介あるいは経済成長の先導の役割を担っており、その意味で極めて重要です。しかし忘れてならないのは「おカネは手段に過ぎない」ということです。このおカネと言う手段があまりに強力であるため、その威光に目を眩まされて、あたかもおカネが経済の主体であり、守るべき価値があるかのように感じてしまう人がほとんどです。しかし「おカネは手段に過ぎない」のであり、経済の本質は「モノやサービスを生産し、人々に供給すること」なのです。ゆえにモノやサービスが十分に生産できなければ、おカネの価値など吹き飛んでしまいます。むしろ、もしモノやサービスが十分に生産され、それがおカネを利用しなくとも人々に分配できる方法があるなら、世の中におカネなど必要ありません。

おカネで私たちは幸せになれるのではありません。おカネで手に入れる「モノやサービス」で幸せになれるのです。おカネは道具であり、それ自身が富であることは決してないのです。

2010年7月11日日曜日

(1)経済の理屈に振り回される人々

いま、日本の政治は混迷を極めています。しかし、それ以上に混迷しているのは経済です。バブル時代の政治も確かにろくなものではありませんでした。しかしその当時の日本の景気は絶好調であり、社会は活気にあふれ、人々の所得は今よりずっと多く、格差も少なく、忙しいけれど生活は楽でした。しかし今や経済はデフレによる不況に苛まれ、人々の収入は減少し、格差は拡大する一方です。はたして日本の経済はどうなってしまうのでしょうか。多くの人々は不安を抱えて日々を生活しています。

にもかかわらず、巷に流れる経済の話は理論百出であり、どれが正しくて、何をどうすればいいのか全然わからない。曰く「このままではデフレで経済は崩壊する」「ヘリコプターでおカネをばら撒け」「ばら撒きは財政を悪化させる」「世界一の借金大国が財政破綻する」「インフレターゲットを導入しろ」「ハイパーインフレが日本を襲う」「為替市場に政府は介入すべきでない」「円高で輸出産業は空洞化する」など、まさに百花繚乱。主張の多くは正反対。ばらばらで統一されておらず、まさに混迷を極めています。世論がこんなことでは日本の経済は漂流を続けるばかりです。

なぜ経済に関する世論が混乱しているのか。なぜそうなのか。それは多くの人が細かい理屈の迷路に迷い込んでしまい、経済の本当の姿が見えていないからではないでしょうか。経済の専門家の言葉に惑わされ、必要以上に複雑に考えることでかえって本質を見失っているのではないでしょうか。政治家は自らの利益集団に都合のよい理屈を振り回し、マスコミは批判するだけで建設的な解決策は提示しない。だから人類の知識や科学技術がいくら進化しても、いつまで経っても人々は幸福にたどり着かない。専門家と呼ばれる人々の唱える細かい理屈に惑わされることなく、もっと大きく、経済を全体として捕らえ、その本質から切り込む視点が必要なのではないでしょうか。枝葉末節の理屈ではなく、何が本当に大切なのか?経済の基本に立ち返って、日本の経済を見つめ直すべきではないでしょうか。

そしてそれを探求することは政治家やましてマスコミの役割ではありません。私たち一人一人が、経済の基本をしっかり把握し、そこを起点として自分なりの目指すべき方向性、あるべき日本の政策を考える必要があると思うのです。自らの頭で深く考え、自らの信念を確立することが何より重要です。マスコミや政治家の意見をそのまま聞き入れるのは「自ら洗脳を受け入れるに等しい行為」です。

そして、自らの信念が確立されたならば、その自らの信念に適合する政治家や政党を選挙で選ぶわけです。政治家や政党が与えるビジョンを待つのではなく、自分たちがビジョンを描き、それを実現することのできる政治家や政党を選ばねばならないのです。そうしなければ、我々一般国民は一生涯、政治家やマスコミの言動に振り回され続けるだけで終わってしまうのです。

今の世論は経済の細かい理屈に振り回されて経済の本質を見失っています。しかもその理屈の多くは「おカネの理論」であり、経済の本質である「生産と分配(消費)の理論」ではありません。政治家もマスコミも「おカネの理論」に振り回されて日本のビジョンを描き出すことができません。しかし、細かい理屈などどうでも良いのです。本当に求められるビジョンとは、細部で矛盾があったとしても、重要な基軸をはずす事なく、社会のシステムを大きく捕らえ、全体としてより多くの人々を幸福に導くための統合的な指針であるべきです。そのためには複雑で矛盾する「おカネの理論」で人々の頭を混乱させるマスコミや政治家と距離を置き、私たちの生活に直結するはずの「生産と分配(消費)の理論」に基づく確固たる信念を築くことが必要なのであります。

「おカネの理論」に振り回されて経済の本質を見失ってはいけないのです。