2011年6月26日日曜日

地獄の輪転機「金融街」

 「C」The Money of soul and possibility control.というタイトルのアニメが完結した。タイトルは英語だが日本のアニメで、金融街(民間銀行、株式・証券債権などの市場)をテーマにした深夜アニメ作品です。日本のマスコミがびびって扱わないような金融の異常さに堂々と切り込んで見せた意欲的な作品です。恐らく日本ではなく外国で評価が高まるでしょう。その内容について少し考えてみました。

核となる設定は「金融街の黒いカネ」

 主人公は余賀公麿(よがきみまろ)という大学生である。親が失踪して叔母にお世話になり育ち、大学へ進学してもおカネが無くバイトの掛け持ちでなんとか生活する毎日。そんな折、深夜に試験勉強する公麿の元に、ミダス銀行通商部を名乗る真坂木(まさかき)という奇妙な男が現れる。真坂木の言うには、現実の世界と平行した異世界に「金融街」が存在し、そこで行われる取引に参加して他の参加者と金融で勝負すれば楽におカネが儲けられるという。そのおカネは現実世界でも自由に引き出して使えるから、公麿にもぜひ参加するように勧める。そしてその元手となるおカネをミダス銀行が貸し付けるというのだ、公麿の未来を担保にして。

 自分の未来を担保にして借り入れたおカネを使って金融街では「ディール」と呼ばれる勝負が参加者同士で繰り返される。勝てば相手の資産を奪うことでおカネを手にすることが出来る。しかし勝負で負ければ、担保として差し入れている自分の未来がミダス銀行に奪われることになるのだ。そして最悪にも破産した参加者は自分の未来をすべて担保としてミダス銀行に取られて廃人同様となり、自殺したり、事故で死んだりして人生を終える。

 そしてミダス銀行の発行するミダスマネーを現金自動支払機から引き出した公麿が目にした紙幣は真っ黒い色をした「黒いカネ」だった。

 これはすごい設定です。挑戦的過ぎて驚きます。このアニメの監督の勇気には驚きますね。こういう金融の核心部分をマスコミは逃げて絶対に触れないからです。金融街のバトルで負けて破産した人は担保として差し入れていた未来をミダス銀行にすべて奪われることになる。金融街のために多くの人が破産してミダス銀行に次々に未来を奪われていく。これは私たちの現実社会の金融制度そのものです。

「黒いカネ」に依存する現代経済

 金融街の中心的存在であるミダス銀行は巨大な輪転機を持っており、この輪転機が人々の未来を次々に吸い取っておカネに変えています。まさに地獄の輪転機です。そこから吐き出される膨大な黒いマネーが現実社会にも流れ出して、物語の現実経済に大きな影響を与えています。私たちの現実世界でも金融街から流れ出すマネーに経済活動は大きく依存しており、依存するがゆえに金融街の影響が大きくなってきました。影響が大きくなるとますます依存するようになり、経済はいつしか金融街の生み出す黒いカネなしで立ち行かなくなりました。そして金融街がまるで経済を支えるかのように人々が思い込むようになる。何か金融街が非常に重要なものであると思い込むようになる。そのため、たとえ未来をすべて担保にしたとしても何も不思議に思わないようになる。恐ろしいことです。

 なぜ金融街の黒いカネに経済が依存するのか?市場経済のメカニズムにおいては、カネが無いと経済が動かないからです(カネが無くとも機能する経済の仕組みもあるが、今はどの国も採用していない)。市場経済のメカニズムにおいては、おカネの循環に乗って財(商品やサービス)の生産と分配が行われる仕組みなので、おカネが潤沢に出回れば経済は活性化して人々の生活は豊かになる。一方、おカネが貯蓄されるなどして滞るようになると、経済は低迷して人々の生活は貧しくなり貧富の格差も広がる。つまりおカネが必要なのです。だから何でも良いからおカネがあればよい。黒いカネだろうと偽札だろうと無関係です。人々が「おカネであると信じているもの」があれば、経済は活性化するのです。そのため、それが黒いカネであると知りながら、世界は未来を担保にしてまで黒いカネにすがるのです。

 金融街は地獄の輪転機で凄まじい量のミダスマネーを供給します。金融街の生み出す膨大な黒いカネこそがインフレの原因であり、バブルの原因でもあるのです。アニメではやがてミダス銀行による「決済」が行われます。ミダス銀行の決済により、ほとんどの人々の未来は銀行に奪われ消えてゆきます。

黒いカネの正体は「預金通貨」

 この地獄の輪転機が生み出すカネ、つまり金融街が生み出す黒いカネは中央銀行が発行する銀行券つまり現金とはまったく別のモノです。現実社会では輪転機は中央銀行が有するので、ミダス銀行を中央銀行と勘違いしそうですがそうではありません。中央銀行が発行する銀行券は担保を必要としませんし、決済もありません。ミダス銀行とは民間銀行のことです。現実の世界では、民間銀行が担保と引き換えに「貸付け」することでおカネを生み出すのです。この行為を「信用創造」といい、そのおカネが「預金通貨」と呼ばれます。これは現金と同等に扱うことが出来るよう決められているので、多くの人は現金と見分けが付きません。ところが驚くことに預金は銀行間の決済に使うことが出来ません。黒いカネだからです。銀行間の決済には預金ではなく現金(日銀当座預金)が使用されるのです。つまり私たち国民だけが黒いカネを掴まされていると言えるでしょう。

 地獄の輪転機はとどまることなく黒いカネを生み出し、バブルを引き起こしては崩壊し、莫大な人々の未来を決済により吸い取り続けています。最終的に人々から奪った担保を手に入れている奴は誰なのか?物語は何も語りません。真坂木が意味深な台詞を残して消えてゆく以外に。

おカネの存在意義を問い直そう

 最終的にこのアニメは解釈の難しいエンディングを迎えます。主人公とその仲間は金融街を崩壊させるべく、金融街の生み出した膨大なミダスマネーを一気に現実社会へ流出させてハイパーインフレを起こさせ、おカネの価値を崩壊させます。その上で地獄の輪転機を逆回転させて、未来を担保に発行したミダスマネーを消し、かわりに担保に差し入れていた未来を取り戻します。

 現実社会でこんなことをすれば社会は大混乱になるでしょう。しかし、それはありかも知れません。人々にとって本当に大切なのはカネの価値ではなく、人々の生活を支える財(商品やサービス)の生産と分配です。財の生産と分配がしっかり機能すればカネの価値など1万分の一になっても関係ないのです。人々の生活に必要な財が必要な量だけ生産されるなら、「配給経済」で人々は生活できるのです。配給経済なら通貨価値や物価などという概念すら存在しなくなる。SCM(サプライ・チェーン・マネジメント)のように高度な情報物流網の発達した今日の社会では、市場によらない生産と分配という経済形態が模索されても良いと思うのです。もちろん今すぐに実現は無理ですが。

 「C」The Money of soul and possibility control.は非常にすばらしい試みです。今の日本人のおカネに関する知識レベルはほとんど「文盲」です。おカネの稼ぎ方は理解していても、おカネの本質を知る者は極めて少ない。多くの日本人がおカネの本質とは何かを真剣に考えることが出来るようになったとき、日本は次の時代へと踏み出すことができると思います。果たしてその時が来るのでしょうか・・・・・。

2011年6月19日日曜日

陰謀論の薦め


陰謀論というと胡散臭いというのが世間の常識です。もちろん私の常識でもありました、最近までは。しかし、世界の常識とあまりにかけ離れた政治・金融の政策が次々に打ち出される様を観察していると、その理由の説明がつかないのです。もちろん「政治家や日銀がとてつもない馬鹿」という仮説も考えられますが、それは酷すぎます。ところが陰謀論を仮定すると非常にスムーズな説明が可能となります。

そもそも世の中は陰謀だらけ

陰謀論を否定することが善であるかのような常識を語る人が多いですが、世の中の実態はどうなのでしょうか。40年以上も生きていると、実は陰謀で社会が成り立っていることに気が付きます。笑い事ではありません。政局は陰謀なしの美しいものでしょうか?民間の社内権力争いも陰謀なしの美しいものでしょうか?はては恋敵を蹴落とすための陰謀が無いとでも?素直な、謙虚な気持ちになって事実をよく観察し直すなら、程度の差があっても、そこに陰謀を見出すことができるはずです。信じたくありませんが陰謀とは人間の真理です。それを拒絶して誠実だけで生きようとすることは尊いことですが、だからと言って「陰謀が無い」とするのは、あまりにナイーブに過ぎます。

警察の捜査は「陰謀論」が前提

疑わしきは罰せず。確かにそうですが、疑いを掛けなければ警察の捜査も進みません。人間がすべて誠実であると考えて捜査をすれば、すべての事件は迷宮入りしてしまうでしょう。犯人と思しき人物に疑いを掛け、尾行して行動を観察し、状況を積み上げます。科学も仮説を立てることで成り立ちます。疑いを掛けるわけです。そして注意深く観察し、再現性を検証します。「背景に何かある」と考えなければ、科学すら成り立ちません。とりわけ人間の社会は人間が動かしていますから、誰かが何かのために行動することが社会現象を決定付けます。周知の事ですが人間の行動を決定するのは残念ながら理論ではなく欲求です。陰謀論が説得力を持つのもそのためです。

陰謀論の着眼点は「誰が得をしているか」

何をしているか、何を発言しているかを観察しても真実は何も見えてきません。どんな行動をし、誰がどんな得をしているかという「結果」に着目し、仮説を立てます。日本銀行はバブル崩壊後「日銀はデフレ脱却のために努力しています」と15年も発言し続けてきましたが、結果は一度としてデフレ脱却に成功していません。知的レベルの高い官僚の間では、何の結果が出なくとも「努力しています」といえば高い評価が得られるようですが、知的レベルの低い民間では「努力しています」と言って結果が出ない場合は「努力していない」と評価されます。つまり、民間の常識で言えば、日銀が「デフレ脱却に努力しています」と言い続けて出てきた結果が「15年のデフレ継続」であれば、そもそも日銀はデフレに誘導する目的があったのではないかと疑います。それが警察の立場であり、科学的立場です。そうすると、なぜデフレに誘導する必要があったかを説明する必要がありますが、それは、日本の長期デフレが誰に利益をもたらしたかを観察することで説明できます。

日本がデフレや円高で苦しむ中、まるで国策のごとく産業が中国へ移転し始めました。デフレ不況で引き起こされる「より安い商品が売れる」という状況は、人件費の安い中国への産業移転を加速させる誘因となります。また、デフレは必ず円高を引き起こしますので、デフレにより日本から海外へ輸出することがコスト的にどんどん厳しくなります。これも産業の移転を加速させます。つまり、長期のデフレ維持は、日本の産業を中国に移転し、中国の発展をもたらす結果になりました。

また、産業が移転するためには「投資」が必要となります。資金です。多くの場合これは銀行からの借り入れによってまかなわれる事になります。これにより銀行は莫大な利益を得ることができます。日本はデフレ不況のままなので、国内への投資はすすまず、銀行は金利を稼ぐことができません。企業がこぞって中国へ移転すれば、そのための資金需要は半端でありません。中国への産業移転で日本国民は仕事を奪われ苦しんでいますが、銀行は大儲けしたはずです。また産業移転で中国へ流れ込んだおカネはバブルという連鎖反応を引き起こし、金融関連企業に莫大な利益をもたらしています。

肯定する証拠を出すことも、否定する証拠を出すことも困難です。だからといって「証拠が無いから嘘だ」という考えは、ナイーブに過ぎます。証拠が無いのであれば、状況を用いて真偽の評価をするのが普通です。日銀の行動は何も変化しておらず、一貫しています。過去15年にわたってデフレが改善されなかったにもかかわらず、その方策を一切改めようとせず、なおも同じ方策を継続しています。普通は結果が出せないなら方針を転換し、様々なアプローチを行います。しかし、日銀はまったく同じ事を繰り返すだけ。つまり日銀にはデフレ脱却の意図が無いことを意味します。中国や金融社会との関連性については、日銀の方針が転換したときに、誰かが何かの行動を起こすという形で表面化するはずです。注意深い観察が必要です。

真実は「ある」のではなく「作られる」

私たちが真実と信じているものの多くは作られたものです。目に見えているものは、まさに目に見えているままなのですが、目に見えないもの、抽象的な概念、社会の常識などは「それが真実である」と思い込まされることによって真実となります。人間がある事象を信じるか信じないかは無意識下に刷り込まれた暗示が決定します。催眠術で嘘を信じ込まされるのは、催眠術により無意識下に暗示を埋め込むことができるためです。人の意思と行動は無意識が支配します。これは変な考えではなく、心理学のごく初歩的な知識です。その無意識の暗示を打ち破る手段は一つだけ。「疑うこと」です。暗示は本人がそれを疑った瞬間に解けます。

「陰謀論は胡散臭い」という常識も作られた真実です。もちろん陰謀を信じるか信じないかは個人の自由です。しかし、陰謀が社会を動かすということを否定してなお、すべての社会現象に説明が付く人が居るとすれば、もはや神の領域に達しているとしか思えないのです。

人を疑わない態度は美しく見えますが、それは暗示のままにコントロールされて生きることを嬉々として受け入れている姿勢にすぎません。出来ることなら人など疑いたくもありませんが、そういう人間は利用され、淘汰さえる社会であることを忘れてはいけないと思います。

2011年6月10日金曜日

貯蓄が減る?では減ったおカネはどこへ

日本の貯蓄率が低下し続けています。そのため、将来において国債を買い支えるための貯蓄が無くなり、国債価格が暴落して金利が上昇すると騒いでいます。ところで、家計の貯蓄が減少するとすれば、その分のおカネはどこへ行くのでしょうか?

誰も何も書きませんが、貯蓄が減った分だけ、そのおカネがどこかへ行くはずでしょう。それとも、消えてしまうのでしょうか。企業へ流れるのでしょうか。企業に流れたとしても、民間の貯蓄は減りますが企業の貯蓄が増加しますので、貯蓄の総量は減りませんよね。銀行へ流れる。銀行の貯蓄が増えるので、貯蓄の総量は減りませんよね。海外へ流れる?貿易黒字の国の通貨が海外へ流出するとは普通考えられませんよね。アメリカは貿易赤字なのでドル垂れ流しですが日本は真逆です。もし海外へ流れても、海外の円貯蓄が増えるので、円としての貯蓄総額は減りません。残る経済主体は日本国政府だけですが、もとより負債しかありません。では、貯蓄率が低下して減ったおカネはどこへ行くのでしょうか?誰も何も書きません。書くと嘘がばれるからです。

では、本当に円通貨圏の全体の貯蓄が減る心配はないのでしょうか?実は減る心配があります。それは、貯蓄の減った分だけおカネがどこかへ行ってしまうからなのではなく、おカネそのものが消滅するからです。


現在おカネとして流通している「預金」は債権です。債権とは誰かがおカネを借りて、その借りた人が返済するという約束(信用)が価値として認められ、流通しているものです。預金とはだれかが借金することで生まれたおカネなのです(ちなみに預金と貯蓄の違いがわからない人は、預金制度の基礎を知る必要があります)。ということは、誰かが返済するとおカネは消えます。それでも世の中のおカネがすべて消えて無くならないのは、返済される借金が毎日大量にある一方で、新たに借りられる借金も大量にあるからです。おカネは常に生まれたり消えたりしているのです。ところが、借りる人より返す人が多くなると、世の中の預金はどんどん減少し続けます。

つまり、貯蓄が無くなるのは、貯蓄率が低下するために起こるのではなく、デフレ不況でおカネを借りる人がどんどん減っているのが原因なのです。 マスコミはこの事に決して触れませんので、専門家を除いてこれを理解している人は世の中にほとんど居ませんです。

そうは言っても、不況で借金をする人が減っているにもかかわらず日本の預金総額そのものは大きく減少していません。なぜでしょうか?誰かが借金することで預金が生まれているなら、いったい誰が借金をしているのでしょうか?それは日本国政府です。

デフレ不況でおカネを借りる人が激減し、本来であれば世の中のおカネが消えてしまうのですが、日本国政府が国債を発行することで、世の中のおカネの総量を維持してきたのです。ですから、国債の発行を減少させると預金総額が減少し、社会に循環する通貨が激減し、貯蓄そのものも急速に減少します。つまり、今の貯蓄は国債によって支えられているのです。マスコミはこのことを一切書きません。 貯蓄が減って国債を買えなくなるなど笑止であり、実際には国債が貯蓄を支えているのです。

余談ですが、麻生太郎はそのこともよく理解していたと思われます。「不況で誰も借金をしないから政府が借金をして経済を支えているのだ」という趣旨の発言をしています。さらに、借金として生まれる「預金」に依存する現代経済システムが限界に来ている事を知っていたらしく、政府通貨の発行を検討していました。政府通貨とは「消えることの無いおカネ」です。しかし、そのことが麻生政権の命取りとなりました。歴史上、政府通貨を検討した政権は必ず潰される。ケネディなど暗殺されたほどです。実際に政府通貨を発行して南北戦争に勝利したリンカーンも暗殺されています。案の定、麻生政権は社会の支配階層であるマスコミから総攻撃を受けて崩壊することになりました。

麻生は愚にも付かない失言を除けば、近年まれに見る優秀な政治家でしたので、実に残念ですが、これが民主主義の実態です。

2011年6月4日土曜日

財源の本質とは何か

財源をおカネだと考えている人がほとんどですが、本当の財源とはおカネではありません。年金の財源といえば、おカネだと考える人がほとんどですが、おカネなどなくとも老後の生活の保障は可能なのです。財源とは富を生み出す生産力にあるからです。

年金財源はおカネではない

人々が生活するために本当に必要なのは生活物資です。衣食住の物資であり、保健医療、娯楽、教養などのサービスです。大切なのはおカネではなく、これらの生活物資をいかに生産し、人々に分配するかということです。そのための方法の一つとして年金制度があるのです。もし年金制度が機能しておカネを高齢者にきちんと配分することができたとしても、生活物資やサービスの絶対量が不足してしまえば、老後の生活など保障できるはずもないのです。年金制度とは、おカネの制度を利用してはいますが、実際には生産した生活物資やサービスを高齢者に分配するためのシステムにほかなりません。社会の活力を高め、その余力によって高齢者に分配する商品やサービスを生み出すことこそ年金制度の本質なのです。高齢者に分配する財を生産すること。財務省や日本銀行の理論が空虚なのは、このような視点が決定的に欠落しているからです。彼らにあるのは生産ではなく「カネの収支」「カネの交換レート(物価)」だけなのです。これでは年金制度など崩壊して当然なのです。

カネの収支やカネの交換レートが大切といわれる理由は、それが社会の活力を高め、生産余力によって高齢者に配分するための財を生み出すために必要だと考えられるからであります。しかし、デフレや不況により社会の活力を失ってまでカネの収支やカネの交換レートを守ろうとすることは、本末転倒です。これではカネの収支は合っても生産が滞り年金制度は本質的に崩壊する。官僚にかぎらす、組織はその性質から言って国家の全体最適化ではなく、その省庁の目的を最適化しようとする傾向があり、たとえ国家を破滅に導くとしても組織の目的に向かって猛進します。それは太平洋戦争へ突き進んだ軍官僚組織にあきらかです。戦前の軍官僚と同じように、いままさに財務官僚と日銀官僚が組織の目的のために暴走し、日本を太平洋戦争以来の破局に導こうとしているとしか思えません。すくなくとも、政治主導ではなく、官僚主導の政治が堂々と行われている今日は、戦争へと突入して行った、軍官僚主導の戦前日本と酷似していると言えるのではないでしょうか。

カネを抜いて考えてみる

現在の経済は市場とカネを通じて財の分配が行われるため、生産と分配という経済の根本的なシステムが見えにくくなってしまいました。モノ余りの時代と言われる一方で、モノの不足した貧困層が増加する日本。そこで、おカネを目に見えないように透明化して、財の生産と分配だけを見てみましょう。このためにアリの社会を想定してみます。このアリは人間には見えない特殊な化学物質を「おカネ」として使っているとしましょう。彼らの社会では物資の交換におカネが使われているのですが、私たちには見えません。すると、おかしなことに気がつきます。食料が大量に生産され余っている一方、そのすぐ横では満足な食料を得ることのできないアリが餓死していくのです。普通のアリの社会であれば、こんなことはあり得ないでしょう。食料の足りないアリは余った食料を食べて、アリの巣全体で餓死など出るはずはありません。それが普通です。ところがこのアリの社会では食料が余って腐る一方で、その横で餓死するアリが大量に発生するのです。余っているのだから分け与えればよいのですが、それはしません。その理由は、飢えているアリにおカネが無いからなのですが、私たちにはおカネが見えないので、そのアリに食料が分配されない理由は外から見てもわかりません。なぜか食料が余っているのに、一部のアリには食料が分け与えられないのです。その一方で食料が余ってしまうため、生産余力があるにも関わらず、食料の生産を減らしてしまいます(生産調整)。なぜ餓死するアリが大量に居るのに生産を減らすのか?そのアリに言わせると「需要が無いから」だそうだ。だがその矛盾を指摘するアリは居ない。そして「需要が無いのは人口が減少しているからだ」という。それが正論としてアリの社会では信じられているのです。飢えているアリが何万匹も居ても、需要が無いと平気で信じています。このようにカネは人々の考えを混濁させ、本質を覆い隠してしまうのです。カネを抜いて考えてみると、この矛盾に誰もが気がつくはずでしょう。日本の社会がおかしくなっている原因は人口が減っていることではありません。おカネの存在こそが災いの元凶なのです。

もちろん通貨を廃止せよなどと言うのではありません。通貨制度は多大な矛盾を孕んでいるとしても重要な制度です。通貨制度に代わる生産と分配のシステムを実現することは簡単でないからです。そうではなくて現代の拝金主義、カネベースでしか物事を考えることのできない偏った政治家や官僚に任せていては、本質を見失い、国家を破綻させる危険性があることを指摘したいのです。そして、通貨制度は憲法と同様に永遠普遍のものではなく、時代とともに常に改革され、それによって生産と分配を最適化し、不幸な人々を減らす必要があるはずなのです。財務省も日本銀行も官僚であり、官僚にはそれができない。リスクを負えない官僚組織は宿命的にイノベーションを実行できないのです。それゆえ企業であればトップが、国家であれば政治がリスクを背負ってイノベーションを行わねばならない使命にあります。政治主導の意味はそこにあるのです。

財源とは生産能力そのものである
ゆえに生産能力を増やすことが財源の確保となる

財源をおカネではなく、財を生み出す生産力であると考えることが必要です。財源とは普通「税金」を意味します。しかし税金はそれを使うことで何らかの財(公共設備や公共サービスなど)を生み出していますので、一定の生産力を背景に必要としています。国全体の生産力から税によって費やされる生産力を引いた残り、この残りの生産力が民間の生活必需品の生産と消費に費やされます。おカネを使って財を生み出す以上、財源とは生産力のことなのです。生産力なくして財源は成り立ちません。そして、増税するということは、国全体の生産力のうち税金によって費やされる分の生産力を増やし、民間の生産と消費に費やされる分の生産力を減らすことを意味します。増税によって人々の生活が苦しくなるのは、国全体の生産力のうちの多くを、税金というかたちで奪われてしまうからなのです。表面的には税金という形でカネとして奪われていますが、本質的には生産力を奪われているのです。そして政府が税金として徴収した生産力を政府として使っています。これが財源です。

財源を考えることは、国全体の生産力の振り分けを考えることであることがわかります。予算とは、その振り分けをおカネを使ってやっているに過ぎません。国全体の生産力をどのように配分して使用するのか。社会主義であればそのすべてを国家が管理しますが、資本主義では税を用いて公共と民間の配分を決める以外は、民間に任されることになります。

生産力の振り分けをおカネを用いて行うことが可能なのはなぜか。それは生産量が循環する通貨量によって決まるからです。年間に生産される財は市場においてほぼ完全に売買されるので、生産量は財の売買に使われたおカネの総額、つまり循環するおカネの量に等しいわけです。そして、売買に使われるおカネの量に応じて生産量が決まります。つまり、たくさん売れればたくさん生産されるのです。従って売買に使われるおカネの量、つまり循環する通貨の量が増えれば生産力も増加します。しかし最大生産力を超えることはありません。最大生産力は生産余力および経済成長力の合計です。つまりデフレ日本のように工場や労働者が余っている状態であれば、生産余力がありますし、生産技術があれば生産能力の向上、つまり経済成長が期待できます。その範囲であれば循環する通貨量を増やせば増やすほど生産力が増加します。

すぐに気が付くと思われますが、生産力を高めて、その高まった生産力を政府が利用するのであれば、民間消費に必要な生産力が奪われることなく、公共設備や公共サービスなどを実現することが可能であることがわかります。ところが財務省が行おうとしているのは、生産力を高めることなく、政府で使用する分の生産力を民間から奪おうとする行為ですから、どうやっても民間の貧困化は避けられません。しかも、いまある生産力を振り分けるという行為だけを続けていても、日本の生産力が向上することなど無く、財務省の行為は、ただ場当たり的に問題を先送りしているに過ぎないのです。

財源を確保するとは、今ある生産能力の範囲で振り分けを考える事で実現できるのではありません。財源の裏づけとなる日本の生産力を高めることによって初めて可能になることなのです。そして、生産力は最大生産力を超えない限り循環する通貨の量を増やすことによって高めることができる。これを基本として財源を考えるべきだと思うのです。