2013年1月6日日曜日

経済の本質は「物々交換」 ゆえにインフレは怖くない


経済をおカネで考えるのが現在の主流ですが、その思考法だけに頼ると経済の本質が見えなくなると思われます。そもそもおカネに価値はなく、財と交換できるという約束、信用があるだけの存在です。にもかかわらず、おカネを財と同様の価値あるものとの前提に立つ経済学は、おカネがおカネを生む虚構の経済活動を正当化し、人々を実体のないカネ中心の経済論争に巻き込む危険性があると思われるからです。

<経済の本質は物々交換>

私たちの生活はおカネではなく、消費財を消費する事で成り立っています。それらは財(商品やサービス)と呼ばれます。世間ではおカネも「財産」と呼ばれたりするのでややこしいのですが、おカネは財ではありません。財とはあくまでも私たちの生活を直接支える「モノ」です。そしてこれらのモノは人々が労働して作り出したものです。流通や販売なども、このモノの一部と考える事ができるでしょう。そして、市場という場で、おカネという媒体を用いてモノを交換しあう事で多くの人々に消費財が分配され、経済が成り立ちます。

ですから、経済は物々交換が基本であり、おカネはその媒体です。当たり前の事です。ところが、経済の話になると、なぜかこの基本が忘れ去られて、おカネのやり取りの話が中心に躍り出てきます。モノの生産や分配という本質は捨て置かれ、おカネの収支だとか、おカネの価値(インフレ・デフレ)で経済を論じようとするのです。しかしおカネはモノと交換できる信用によって価値を維持しているのです。モノの生産と分配をほったらかして、おカネの話などいくら論じたところでナンセンスです。まずモノの生産と分配のシステムを活性化することが先決であり、そのためにおカネとはどうあるべきかを考える必要があると考えます。

<物々交換にはインフレもデフレも関係ない>

物々交換の経済には基本的にインフレもデフレもありません。おカネを介さずモノとモノを交換するのですから当然といえば当然です。昨日までニンジン10本と交換できた卵が、あすはニンジン12本、あさってはニンジン15本・・・というように、交換比率がどんどん増える、なんて事は、鳥インフルエンザでニワトリが全滅でもしないかぎり普通ありえません。ニンジンを受け取る側が、そんなにニンジンをもらっても仕方ないですから。ニンジンは腐ってしまいますから、必要以上に交換比率を吊り上げる人はいません。一方、おカネは腐る事がありませんから、いくらでも交換比率は上昇します。インフレです。

もちろん物々交換でも「作りすぎ」という問題が発生するかも知れません。あまりに多くの人が同じモノを作ると余ってしまい「もういらない」といわれてしまう。そんな時は作らなければ良いのです。一方で不足しているモノがあるなら、手分けしてそれを作ればよいのです。人々が分業して必要なモノをすべて作り出すことができれば、モノ不足は解消し、すべての人々に必要な消費財が行き渡ります。人々は生産者であると同時に消費者です。そして、人々が必要だと考えているモノがすべて満たされたなら、何もそれ以上に働く必要はありません。健康を損なうほど必要以上に働いてモノを生産しても無駄に腐るだけです。これは物質的に腐敗する事がない電子機器や家電製品でも同じです。技術の進歩で時間と共に商品が陳腐化するからです。

<インフレで貧しくなる原因は物価高ではなく賃金格差>

経済の基本が物々交換であるなら、たとえ交換におカネが介在したとしても同じ理屈が成り立つはずです。つまり、日本は生産力が十分に高く、人々の必要とするモノを作り出す能力が十分にありますから、モノ不足は生じません。モノは余るほどあるのですから、それを交換し合うだけでよいわけです。それが市場の役割です。

従って、仮にインフレになった場合でも、モノの値段は上がりますが、モノの量は不足しません。おカネの価値が下がったところで、人々が貧しくなる理由は何もありません。モノ不足による貧困は、途上国のように生産能力が低すぎる場合に発生する問題です。モノが十分にあるにも関わらず、人々にモノが十分に行き渡らないとすれば、それはインフレが原因なのではなく、市場の分配機能が麻痺している事が原因です。

通貨は消費者と生産者の間でぐるぐると循環しています。通貨循環です。モノの値段が上がるとモノが売れた時に生産者の受け取るおカネの量が増えます。高く売れるのですから、生産者の売上げは増えます。この場合、生産者は企業という事になりますが、企業は労働者が働く事で成り立っており、企業の受け取るおカネの量が増えれば、必然的に労働者すなわち消費者に分配されるおカネの量も増える事になります。原材料の仕入れ先から会社役員や株主まで含めてこれを生産に関与する労働者として捉えるなら、企業の受け取ったおカネはそれらの人々にすべて行き渡ります。これがキチンと機能するなら、インフレでモノの値段が上がっても、消費者の所得も増加し、モノが買えなくなる事はないはずです(ただし、銀行への借金返済は考慮していません)。

とはいえ、支払われるおカネの分配比率によっては当然ながらインフレ率より多く所得の伸びる人や、インフレ率より少ない分しか所得の伸びない人が生じます。これは所得格差です。この格差が大きくなると、所得の少ない人は賃金が伸びてもインフレに追いつかず、実質的に貧しくなります。つまり、インフレの弊害は物価が上昇する事で発生するのではなく、支払われる賃金の格差によって発生します。一方で、所得が大きく伸びた人は、その伸びた所得の分だけ消費を増やすかといえば、実は増やしません。増やすのは貯蓄です。貧しい人が増えて、逆に貯蓄だけ伸びる。これは問題です。

<モノが不足しないのに物価は上がるのか>

市場原理で物価が上昇する場合、需要が供給を上回る状態がなければならないはずです。日本の供給力が十分にあってモノ不足が生じないなら、市場原理から言えばインフレなど生じないと考える事もできます。確かにタマネギやニンジンなどは、いくら庶民がおカネを持っていても二倍も三倍も食べるようになるわけではありませんから、そのような意味でのモノ不足は生じないでしょう。しかし、ニンジンやタマネギでも単価に差があります。立派なニンジンや上等なタマネギは単価が高いし、量も少ない。庶民におカネがたくさんあると、そのような単価の高い商品が売れるようになると考えられます。

つまり、庶民のおカネにゆとりが生まれると、より品質の高い、付加価値の高い商品へと売れ筋の価格帯がシフトする可能性があると思われます。実はバブル経済の華やかな時代、おカネが有り余った人々は高級品嗜好、本物嗜好となり、高額で品質の高い商品が飛ぶように売れました。おカネにゆとりがあれば、高くても良いモノが欲しい。高くても自然食品が食べたい、健康に良い食事がしたい、中国産ではなく、国産の商品が欲しい、そう思うものです。

このような「商品の高品質化」という形で物価上昇が生じるのであれば、それは人々を不幸にするでしょうか?安ければ良いというデフレの風潮。そして安いから品質は悪く、どこが産地かもわからない食品を食べることに甘んじる、それがデフレ。そんなのはごめんです。インフレがモノ不足ではなく、商品の高品質化、高付加価値化から生じるのであれば、消費者にとってむしろ望ましい変化であると思います。

もちろん、希少品の価格は需要が増えることで上昇すると思われます。高くて買えなくなる人も出るかも知れませんが、おそらく一時的な現象で終わると思います。なぜなら、売れ筋の商品なら、メーカーがこぞって参入するからです。日本の企業を甘く見てはいけません。このような産業に失業者が吸収され、日本の生産力が拡大し、景気は回復してゆきます。

また、余ったおカネは新商品の販売を促進します。新商品は希少なので、みんなが新商品に飛びつくと需要が追いつかず、価格は高くなるでしょう。このような新商品が既存の低価格商品を市場から駆逐しはじめると、物価は上昇すると考えられます。

このような動きは、庶民におカネが十分に行き渡らなければ生じないでしょう。日本の貧困率は15%、OECD加盟国ではアメリカについで高い社会になってしまいました。ですから、所得格差を緩和し、庶民の所得を増やさねばならない、一億総中流の社会へ戻さねばならないのです。そして目指すべきは「一億総上流」の社会です。

<円安による輸入価格上昇で購買力は低下するか>

民主党や一部のマスコミは通貨供給の拡大による「円安」が輸入品の価格を押し上げ、インフレで生活が苦しくなると主張しています。本当にそうでしょうか。もしおカネを増やした結果として円安になり、モノの価格が高くなったとしても、増やしたおカネが庶民に行き渡ることで所得が増えるなら、物価上昇の影響は相殺される事になります。もちろん、おカネの回り方によっては所得の増えるタイミングが早い人もいれば遅い人もいるでしょうから、人によっては一時的に影響を受けるでしょう。しかし長期的に見れば、おカネがきちんと世の中に回り続けるなら、やがて多くの人の所得が上昇します。ですから、問題はおカネを増やすことにあるのではなく、「おカネの循環を妨げる行為」にあるのです。せっかく増やしたおカネを誰かが貯め込めば、所得は減り、購買力は低下するでしょう。

さらに、円安になれば輸出産業が輸出を伸ばす事になります。これらの輸出産業は輸出代価として外貨を受け取りますが、この外貨を売って円を買い、それを国内の設備投資や従業員の給与の支払いへ振り向けます。すると、おカネの循環量が増大し、所得を押し上げます。また貿易黒字の拡大に伴い、外貨を売って円を買う圧力が高まるため、円安にも一定の抑制がかかります。

<物価が上がる事は本質的な問題ではない>

モノの「価値」とは、人々がそれをどれほど必要としているかで決まるものであり、本来はおカネとの交換レートである「価格」で決まるものではありません。インフレは、おカネとモノの交換レートが変化しているだけであり、モノの価値は何ら損なわれていません。経済はモノとモノを互いに交換する活動ですから、その交換の媒体物であるおカネとモノの交換レートすなわち価格が変化しても、交換には影響はありません。

たとえばりんごと靴下の値段が同じ100円だったとすれば、りんごを100円で売って、その100円で靴下を買うと、りんごと靴下の交換が成立します。さて、消費者物価が10倍になり、りんごの値段も靴下の値段も1000円に値上がりしたとします。りんごを1000円で売って、その1000円で靴下を買うと物価上昇前と何ら変わりなくりんごと靴下の交換ができます。

つまり、価格とは媒体物である通貨とモノの交換レートに過ぎないからです。交換レートである「価格」が変化しても、我々にとってのモノそのものの「価値」は依然として変わらないのです。

<インフレを恐れるな、格差こそ貧困化の原因>

以上のように、インフレで人々が貧しくなる理由などありません。もし貧しくなるとすれば、それは賃金格差が拡大する事によって生まれるのです。物事にはバランスが重要です。能力や実績に応じて所得に格差があって然るべきですが、かといって、高給マンションに住む人々とネットカフェ難民が同じ日本に同居する事が健全だとは思われません。一億総中流といわれ、世界的に格差の少ないといわれていた経済成長期の日本が、活力のない社会だったわけではありません。

おカネを増やし、それをいかにして循環させるか。
それが日本を救う唯一の方法です。