2015年2月8日日曜日

「格差は自己責任」論の行き着く先

いまだに「格差は自己責任」と主張する人々がいるようです。これに対してはマクロ経済的な反論も人間性に関する反論も可能ですが、彼らは彼らの論理に固まっているので「ああいえば、こういう」の水掛け論になると思います。

では、そんな彼らの信仰する「自己責任」を貫いたら社会がどうなるかを考えてみましょう。自己責任論者はその帰結を受け入れる必要があります。自己責任ですから。

まず、格差による貧困層は自己責任だから放置あるいは「怠惰だ」として厳しく接します。しかしそれで国家全体の求人数が増えるわけでは無いため格差は解消せず、貧困層の不満は次第に高まり、反社会的な行動を起こす人が出てきます。

しかし、それらの人が富裕層を殺害して金品を強奪しても、それは格差を放置した自己責任社会の必然的な帰結であり、自己責任です。なぜなら死にたくなければ、自己責任でガードマンを雇うなり、要塞に住むなりするのが自己責任だからです。ですから、社会も治安の回復に責任を持つ必要はありません。犯罪者から身を守るのは自己責任です。

そして、格差が限界に達した時、暴動が発生し、共産革命の悪夢が蘇り、すべての富裕層が殺され、財産をすべて奪われますが、これも自己責任です。それは格差を放置したことの必然的な帰結であり、自己責任を主張した人たちの責任です。死にたくなければ要塞に住み、武装ガードマンを雇い、暴動者を撃ち殺すのが自己責任です。

しかし、冗談を言っているのではありません。
アメリカは、限りなくそれに近いと思います。
「富裕層は要塞に住み、武装ガードマン」=米国標準ですから。
それが究極の自己責任社会かも知れません。