2016年10月26日水曜日

民間VS政府という図式の奇妙さ

ふと思いましたが、民間VS政府という図式が奇妙に思えてなりません。そもそも政府は、民間(大衆)において選挙で選出される議員によって運営されるわけですから、政府は民間の代表であります。にもかかわらず、なぜ民間と政府が対立概念として打ち出されるのでしょうか。これは両者に機能不全があるからではないでしょうか。

両者においてよいパターンと悪いパターンを考えてみます。

民間の良いパターンは自由な民間活力により経済活動が高まり、より社会全体として豊かになるケースです。悪いパターンは、自由の名の下に、通貨や生産財が一部の資産家に独占されることにより、貧困が発生し、格差が固定化される社会になるケースです。

こうした資本や資源の独占と恣意的な利用を防ぐために、政府が独占を緩和し、資源の配分と機会の均等化、あるいは社会全体としての格差の縮小を可能にするのが政府の良いパターンです。悪いパターンは、こうした政府の機能が一部の政治家やそれに癒着する資本家により独占され、公益の名の下に、税金を既得権益集団に分配する構造ができてしまうケースです。

結局のところ、どちらも悪いパターンになれば、ろくでもないことになります。基本的に「法治国家」である以上は、政府の介在は避けられず、法治国家でなければ、民間の権利そのものが保障されない関係にもあります。たとえば、暴力により富を奪うことが堂々と肯定される社会になります。

ことさらに、どちらが悪いとか良いとかいう話ではなく、機能的に考えて、ケースバイケースで使い分けすることが重要でしょう。

それにしても、面白いのは、政府を抑圧者として捉える視点です。確かに政府はその昔、私的なもの、つまり王国貴族こそが政府であり、その抑圧に大衆が対抗する形でした。つまり現代的な意味での民間VS政府とは、まったく違う図式があったわけです。この王侯貴族は財を私的に独占所有する、今日から言えば民間資本でもあるわけで、これに対抗する市民が、今日における民間資本であるという、奇妙な図式もまた成り立つのではないかと。

これは何か、根本的に、ナンセンスなものを感じさせるのです。
単なる醜い欲望の争いかも知れません。
そんな気もします。