2016年11月18日金曜日

「多様性」という言葉に違和感がある

最近、しきりに「多様性」という言葉が使われます。文脈的には、民族や文化、宗教の多様性を尊重する、という意味で使われます。似たような言葉として多文化共生があります。しかし、生物学系の勉強をしてきた自分からすると、どうもマスコミの好きな「多様性」という言葉の用法に違和感を覚えてしまうのです。

生物学における多様性とは、生物学的多様性のことです。この多様性の概念は、民族、文化、宗教の多様性における重要性とほとんど同じであろうと思います。つまり、単一な構成要素からなる集団ではなく、多様な種からなる集団こそ、重要であるとの考えです。

そして、よく考えてみると、「多様性」には二種類の考え方が内在していることがわかります。しかも、その両方が重要であることが理解されるはずだと思うのです。それは、

①個々の多様性が尊重される(価値の同等性)
②個々の多様性が保持される(種の独立性の維持)

つまり、それぞれの民族、文化、宗教が同等の価値として尊重されると同時に、それらが未来永劫に継承され、保持され続けることが、多様性にとって必須となります。では、その成立条件は何でしょうか。

生物学的多様性については、たとえば外来種の問題があります。外来生物を日本国内へ持ち込めば、外来種によって既存種の存在が脅かされ、生物学的多様性は危機に瀕します。生物学的には「地理的隔離」は種の多様性の必須条件なのです。つまり、アメリカザリガニも日本ザリガニも、種として尊重されるわけですが、それらを同じ場所に混在することは不可能です。

ところが、なぜか、これが民族、文化、宗教の多様性となると話が違ってきます。それぞれの民族、文化、宗教を尊重することは大切ですし、仮に混在したとしても、それを尊重し、維持し続けることは、多様性の本来の意義から言って大切です。しかしだからといって、移民政策を推進し、それぞれを意図的に混在させるのとは根本的に違います。これは生物学的多様性から言えば、外来種の問題に該当します。つまり多様性の危機です。

グローバルな視点から俯瞰した際の多様性とは、生物学的には明らかに地理的な隔離によって成立しています。これが種の分化へとつながるわけです。民族、文化、宗教の形成過程においても、かなりの部分において、個々の地理的な隔離が前提となっていると思われます。こうした地理的な隔離をなくしてしまい、すべて同じ場所に混在させるなら、それは分化とは逆の方向、すなわち多様性の消失へ向かうことは間違いないと考えられます。

ですから、多様性を尊重し、かつ多様性を維持するためは、一定の地理的隔離が必要なのであり、多様性を尊重するなどと言いつつ、地理的隔離をこわしてすべてを同じ場所に混在させる「移民政策」は、多様性を危機に陥れる恐れが大いにあると考えます。尊重することと、ごちゃまぜにすることは同じではありません。

もちろん、生物学的には、地理的に隔離されて分化し、それぞれに進化した生物種が、遺伝的な隔離にいたる前に交雑し、新たな種を生み出すこともあるわけです。こうしたことは、民族、文化においても起こりえることであり、たとえばアメリカのように、異文化が混在することで、今までにない異なった文化が生まれることに意味はあるでしょう。しかし、これはあくまでも多様性における副次的な側面に過ぎないと思われます。すべての国をそのようにすることが、多様性にとって理想的ではありません。

しかし、移民政策に対するマスコミあるいは一部の左派の主張を見る限り、こうした視点はほとんど無く、今回指摘したような、多様性の誤った解釈に立脚した人権論、あるいはただ拝金主義的な効率論に立脚しているに過ぎないと思われるのです。尊重することと、混在することを同じにしか考えていません。

「多様性」という言葉を使って、民族や文化を意図的に同じ場所に混在させることの正当性を主張するのは大きな間違いです。尊重することと、意図的に混在させることはまるで意味が違います。それは多様性の成立条件を破壊することになり、やがて世界から多様性は永遠に失われてしまうでしょう。