2016年12月5日月曜日

日本死ね発言と別の点が気になる

今年の流行語大賞として、「日本死ね」がトップテンに選出され、表彰されました。「日本死ね」発言については、これが国会で取り上げられた際にも騒がれたのですが、それが流行語大賞でなんと表彰されたことで、また騒ぎになっています。多くの場合、この発言の是非を巡って論争されているようですが、自分はそれよりむしろ、そうした世間の動きの方が気になります。

「日本死ね」の発言そのものは暴言です。死ねという表現が暴言であることに異論はないでしょう。では、暴言を言ってよいか悪いかといえば、これは表現の自由でしょう。たとえば、米国大統領のトランプ氏やフィリピン大統領のドゥテルテ氏は暴言を吐いています。もちろん政治家が暴言を吐くことには慎重であるべきでしょうが、しかし、これも許されるべきものです。

すなわち、暴言であることを理由に非難されるべきものではない。日本死ねも、トランプ氏も。逆に日本死ね発言を容認しておいて、トランプ氏の暴言を批判するのもおかしい。オバマ大統領のように、言葉は上品だが、行動として何もチェインジしなかった場合と、どちらが優れていると言えるものではないでしょう。仮にそれが誰に対する暴言であったとしても。つまり、日本死ねも許されるし、韓国人死ねも許されるべきです。もちろん、発言者の品格が疑われますが。

とはいえ、これをいたずらに何度も発言したり、これを連呼して街頭をデモするのは別です。こうなると目的が違います。たとえば、「韓国人死ね」といってデモ行進すれば処罰されて当然ですし、また、「日本死ね」と言ってデモ行進すれば処罰されて当然でしょう。相手が強者か弱者かなど関係ありません。集団で意図的に相手を貶める行動そのものが許されないからです。

でも、そんなことはあまり気になりません。むしろ、そんなことで大騒ぎしている世間が気になりますね。

たとえば、「日本死ね」が流行語大賞に選ばれたことに違和感を表明したツイートが、ものすごい数の人々から叩かれて、謝罪に追い込まれたり、その逆に、日本死ね発言者を非難する意見が殺到したりする。何なのか。

もちろん、日本を嫌いな人も居れば、国家そのものを嫌いな人も居る、また逆に、国を大切に考える人、国家の存在を最優先に考える人もいる。しかし、どちらが正しいといえるものでもありません。意見は多様であり、多様であるべきなのです。ですから、互いに批判したところで、おそらく、意見が一致することは絶対にありえない、対立は永遠に続くのです。自分の思い通りではないからといって感情的に対立していては、お話になりません。

こんなくだらない事で大衆が互いに対立していて、どうするのか。大衆が怒りを向けるべき敵はもっと別のところにある。実に絶望的な状況です。互いの立場を尊重し、互いに引かなければならない。大衆が二極対立していれば、世の中を支配し、カネをしこたま貯め込んでいる少数の資産家、富裕層、既存政治家が喜ぶだけです。大衆が潰しあえば、安泰ですからね。

だが、そうした大衆の騒ぎよりもっと気になる事があります。マスコミです。なぜなら、「日本死ね」を流行語大賞に持ち出せば、こうした騒ぎが発生することを十分に予測しながら、おそらく、マスコミはあえて「日本死ね」を持ってきたのでしょう。一時期騒がれて鎮火した火事を再燃させたいと思ったのではないのか。これは扇動ではないか。それによって大衆は騒ぎ、結局、世の中はマスコミの思うように動く。ほくそ笑むマスコミ。暴言を吐いてもいいですか。

火付けは止めろ、マスコミ死ね。