2016年12月6日火曜日

ミクロ感とマクロ感はかみ合わない

ミクロ的な感覚とマクロ的な感覚はかみ合わない場合が多い。というか、つまり、自分の体験や身の回りで感じている経済に関わる現象と、マクロ的な考察に基づく理解は異なる。これはいわゆる合成の誤謬のことでもあります。そして、人により、ミクロ的な感覚を重視する人とマクロ的な思考を重視する人がいて、これが対立の大きな原因となっている気がします。

たとえば、公共事業。公共事業はマクロ的に言えば、有効需要を増やして経済を底上げする一定の効果があることは間違いありません。そこで、マクロ的には、これをどんどんやれば良いという話になります。ところが、現場からすれば必ずしも歓迎とは限りません。体験上、公共事業の増加には迷惑していました。

以前に勤めていた会社は横浜にありましたが、住宅建設の中小企業だったので大変でしたね。大企業がカネにモノを言わせて職人をどんどん福島の復興事業など公共事業に持っていき、人件費が高騰、求人しても人がこない。材料も不足して高騰。下請けの外注費用も高騰。しかし、建築受注単価を上げると受注できないから、厳しい状況でしたね。こうなると低賃金の外国人労働者が必要でした。ですから、公共事業を拡大しておいて、外国人労働者の受け入れ制限、などとんでもない話です。中小企業を潰す気満々かと。まあ、厳しかったのは、会社自体の経営にも問題ありましたけどね。

公共事業におカネを投下しても、それがすべての国民の所得の引き上げと消費拡大に向かうには、その間に、何度もおカネがやり取りされなければならない。これは金融緩和の場合も同じです。仮に成長分野で貸し出しが伸びたとしても、そのカネが社会全体に巡るには何年も必要です。現場はそんな気長に待っていられません。今日の売り上げ、明日の資金繰りです。だからこそ、公共事業だけじゃなく、即効性の高い給付金も重要性であると考えているわけです。

それはさておき、こんな感じだからミクロ的な感覚とマクロ的な感覚はあわない場合が多いと思います。どっちが正しいとか、そういう問題ではありません。現場の考えを優先したミクロ的な対策ばかりでは、思い切り「合成の誤謬」に嵌まり込んでしまうかも知れませんし、では現場なんか無視してマクロ理論で突っ走れば良いかといえば、どこかにしわ寄せが行く可能性もあります。

やはり、単純に一つの方法でごり押しするのではなく、諸政策のバランス感覚が重要なのだと思います。