2017年7月12日水曜日

官僚の忖度は厳重に禁止すべき

一般の日常生活とは異なり、行政が忖度で動けば不透明性が増します。官僚の忖度行為が公的な利益を損なうことがないよう、忖度を厳しく禁止する必要があります。そうしなければ国民不在の「公益に反する忖度」が続くことになるからです。

忖度とは「他人の心を推しはかること」だそうです。そしてそれは日常生活においては良い意味で効果的です。他人の気持ちを察して、本人が言わずとも行動する、何かをしてあげる。以心伝心。それは社会を円滑にする効果があるとも言えます。

しかし、行政という、きちんとしたシステムにおいて忖度が横行すれば、それは「あいまいさ」を増やすことに繋がります。すなわち「上位者が明確な指示・命令をすることなく、組織が何らかの行政活動を勝手に行なう」ことを意味するからです。責任の所在が不明確になり、行政の暴走を招きます。これは国民の立場から言えば許されるものではありません。

国民はまがりなりにも民主主義によって行政の長を選んでおり、その長の指揮命令に基づいて行政が運営されることを望み、それゆえに「透明性」すなわち、どのような指揮命令によって行政がどのように動いたのかを常に明確にされなければなりません。メモのようないい加減なものではなく、指示書のような、公的な文書です。

ところが忖度が横行すると、「公的な命令書なし」に「行政が勝手に動く」ことになります。国民のあずかり知らぬところで。はたしてこれで民主政治が機能しているといえるでしょうか。

権力者の側からすれば、こんな便利なものはありません。何ら証拠を残すことなく、つまり国民に説明することなく、暗黙の了解の下に、ひそかに行政を動かすことができるからです。忖度とは、官僚がこれに加担することを意味します。

これを防ぐ方法は「官僚の意思決定は公文書においてすべて説明できること」とし、重要事項における忖度を禁じることです。忖度して勝手に動くのではなく、重要案件の意思決定はすべて文書にて確認しなければ動かない。いちいち指示書、命令書を発行するのは面倒かも知れませんが、だからこそ勝手な解釈と行動を許してしまうわけです。

もちろん、言うまでもありませんが、日常業務のすべての指示を文書化しろという笑い話ではありません。

一方、「忖度をされた(させた)」側の責任は問えるかと言えば問えません。なぜなら、忖度は相手が行うことだからです。もし忖度をされた側の責任を問えるなら、相手をいくらでも陥れることが可能になってしまいます。例えば、官僚の側が公的に問題となる忖度行為を行った場合に、その責任を内閣に求めることが出来るとすれば、官僚は悪質な忖度をどんどん行って、政権を交代させることも可能になるからです。

行政の意思決定における忖度行為を法律で厳格に禁じてしまえば、いくら内閣から官僚に無言の圧力があったとしても「命令書が無ければ動かない」と突っぱねることができます。しかも合法的に突っぱねられます。それどころか、その時点で「圧力があった」と合法的に告発することもできます。

もちろん忖度にも違いがあり、公益を害したり、特定の対象に有利に働くような忖度もあれば、逆に公益に貢献する場合もあるでしょう。ですから忖度、つまり相手の意思を推し量ることを禁じるのではなく、その結果として意思決定・行動する場合、それをきちんと上位者に文書として報告すれば良いのです。裏で隠れて忖度する必要はありません。

行政の意思決定における透明性が求められている時代にあって、行政が忖度で動くことは良いこととは思えません。それを防ぐためには、忖度で勝手に動いた官僚を厳重に処分すると共に、その根拠となる法律を作ることが大切だと思うのです。