2018年2月26日月曜日

オリンピックは国境を越えるという欺瞞

オリンピックは素晴らしいものだし、アスリートの競技や観客の応援に何らケチを付ける気はありません。ただし新聞テレビが報道する「オリンピックは国境を越える」的な記事に欺瞞を感じるのです。

国と国の関係が良好ではない二つの国の選手が互いの健闘をたたえあう友情、外国の選手にも送られる声援。それらは感動的で素晴らしいものです。しかし、それをして新聞テレビが「オリンピックは国境を越える」的な記事を書く。おそらく彼らは「そういう記事を書くものだ」という常識だけで、漫然と記事を書いているに過ぎないでしょうが、もし彼らがもっと深く考えるなら、そこに欺瞞が存在することに気付くはずだと思うのです。

そもそも人と人の競技あるいは交流、友情といった関係には国境など関係がありません。国境を越えたのではなく、最初からボーダー(境界線)はないのです。国境がない分野において「国境がある」がごとく考えていた人は、多国間の交流や応援は「国境を越えた」と驚く事態かも知れませんが、そもそも国境はないのですから当たり前です。

逆に言えば、人々の交流や友情に国境があると考えるのは、政治的な洗脳・強要が行われることで「国境に分断されている」と人々が思い込んでいるだけに過ぎないと思います。外国とは単に地理的に遠いために交流の機会が少ないだけでしょう。

なぜ国境がないのか?競技、交流や友情を行う人々の間で「利害関係は対立していない」。利害関係の対立のない人々の間ではボーダー(境界線)はないし、必要もない。だからボーダーを意識することはありません。互いに競技で争っているので利害があるようにも見えますが、実際、競技に負けて不利益を被るわけではないですし、勝ったからといって敗者から搾取するわけでもありません。名誉を競うのであってそれは利害ではありません。だから最初から国境など関係ありません。

そして新聞テレビにおける「国境を超える」の報道には、「国境は悪いもの・撤廃されるべきもの」とのニュアンス(プロパガンダ)が強く含まれています。ここには政治的なメッセージが強くにおいます。

では、国境を越えて、国境がなくなるとオリンピックの競技のように素晴らしい社会になるのでしょうか?シリア国内では多数の派閥が勢力争いをしています。それぞれの派閥には「国境」(ボーダー)が存在しません。仮に派閥ごとに国境で分割すれば少なくとも殺し合いに終止符は打たれるはずですが、あくまで国境(ボーダー)は設定しない。あくまで分断はせず、だれかが勝者となって唯一無二の指導者になり、統一しようとします。

なぜ人々は殺しあうのか?彼らは「利害関係が対立している」。利害関係の対立している人々の間にボーダー(境界線)がなければ、地獄が生まれます。勝てば全てを得て、負ければすべてを失う。ゼロサムゲームの世界。そんな関係に競技、交流や友情などあり得ないでしょう。

つまり国境は最初から関係ありません。人々を分断し、世界に対立を引きこす原因は国境ではなく「利害関係」であり、その大部分は「経済格差」だと思われます。しかし仮に人々の間に経済格差がなくなったとしても、政治的な洗脳・強制(プロパガンダ)が存在すれば、それは人々の間に本来は発生することがないはずの「不自然な国家間の対立」を生み出す原因になると思います。例えば歴史問題のように。

新聞テレビは漫然と「オリンピックは国境を越える」と記事にしますが、自分は胡散臭さを覚えざるを得ないのです。